栄西禅師生誕地再訪
- 2023/08/04
- 18:41

先月の或る日、四年ぶりに松江のヨロイグサを探索した後、出雲を回って南下し、現在療養の日々を送られている鍼灸家のI先生を見舞う為、岡山某所のグループホームを訪ねた。先生が岡山大学の植物園で突然御倒れになったのが、ちょうど三年前の夏のこと、コロナ禍に阻まれて面会出来ない日々が続いたが、先日お近くにお住まいのT先生より面会が可能になったとの御連絡を頂戴した為、今回、立ち寄らせてもらうことになったのである...
医学の跡をたづねて④
- 2023/06/04
- 10:42

クリックすると拡大静岡の花野井有年(1799~1866)は和歌に秀でた医家として知られ、数冊の医書を著わすと共に『尚書易経字釈便覧』の著述もあるというので数年前掃苔を試みるも、無縁処理を受けてしまったらしく発見出来ずに終わった。『清水郷土史研究会会誌』6号(1996)には、「静岡市安西一丁目の瑞光寺に葬られた。その墓は昭和四十五年頃は存在していたが、数年前に訪れた時は見当たらなかった」とあるも、墓碑の写真は掲...
医学の跡をたづねて③
- 2023/06/01
- 18:10

クリックすると拡大今はブライトンホテルが立っている啓迪院跡も昭和中期にはこんな風情のある土蔵が並んでいたことが判る。何故か、海上随鴎の門前の碑はポッキリ折れているようだ。クリックすると拡大車での遠征を始めた最初期に挑んだ山梨の座光寺南屏は、墓碑の写真を載せる本がない為に現地で苦労した記憶があるが、この連載を先に見ていたら楽勝だったろう。クリックすると拡大3回探墓を試みるも未だ発見に至らない児島宗説...
医学の跡をたづねて②
- 2023/05/28
- 10:18

クリックすると拡大これだけ古い連載だと、既訪の医史跡の記事であっても周辺の風景が全く違っている為、それだけでも値打ちがある。連載第五回では堺が取り上げられており、以前拙ブログでも取り上げた契沖の碑も出ているが、右頁中段の竹田薬師院家の床の間など、今も此の状態で保持されているのだろうか。また、左頁には行基菩薩生誕地と伝わる西区の家原寺が大きく写っているが、実はここは庵主が幼少時よく遊んだ場所で、門の...
医学の跡をたづねて①
- 2023/05/24
- 18:01

録画受講組のYさんが古書市で発掘されたという二冊の古アルバムを送ってくださったのは一月のことであるが、市でアルバムなど視界に入ったところで手に取ったことさえ無い自分はビブリオマニアの貪欲さ(?)にほとほと関心させられたし、一度も直接にはお会いしたことのない小生の如き者に、かかる心遣いを見せて下さるYさんの御人柄にもいつも感じ入っている。都立荒川産院の院長だった外川清彦なる医師が、趣味でシコシコ貼り付...
医家後藤家墓所整備事業のこと
- 2020/04/16
- 18:30

昨年から進められた医家後藤家の墓所整備事業では、まず、墓地内に散在する医家後藤家の各墓碑を一か所に纏める事が計画されたが、昨今あちこちで行われている壁際に一纏めにして押し込める無慈悲極まりない無縁整理のような事は勿論出来ないので、複数の移転先候補があった中から、上品蓮台寺側の意向を汲んで最終的に後藤栗庵の墓碑のあった区画に全ての墓碑を集める事に決定した。最初は、後藤艮山の墓碑を移動させずに、その周...
大慈院後藤艮山一族墓所整備なる!
- 2020/04/13
- 18:26

上品蓮台寺大慈院墓地昭和の一時期、江戸時代の先学先賢を顕彰する或る種のブームに沸いた時代があって、安岡正篤氏が関係した事業が多かったと聞いているが、医学分野では矢数道明先生が積極的に働きかけられ、漢方医家の墓所整備や顕彰碑建立があちこちで行われた。もっとも、最近では旗振り役の不在に各団体における財政状況の悪化、加えて目ぼしい人物は既にあらかた手が付けられた事もあって、あまり類似の顕彰事業は行われな...
薬井~医史跡番外編~
- 2019/11/26
- 19:40

薬井(奈良県北葛城郡河合町)奈良への行き帰りで毎度目にして気になった地名と言えば、雷火豊を彷彿とさせる蔀屋などがそうであるが、北葛城郡の薬井も何年か前から気になっていた場所であった。ただ、通りかかるのが大抵夜中であったことと、薬井交差点の付近には如何せん車をとめられる場所が皆無の為、かなり遠くに駐車してからの徒歩散策を強いられるから、中々機会を持てずに居たのだが、先日ようやく意を決して、わざわざ此...
遣唐使進発の地碑~医史跡番外編~
- 2019/11/23
- 21:13

遣唐使進発の地碑(住吉大社西大鳥居前)縁あって月に一度は、大阪の住吉大社に参拝させて頂いているのだが、年明け暫らくして参拝した際、西の大鳥居前に、えらく立派な石碑が建立されているのが目にとまった。平成三十年十二月に堺市の田中孝司という人が奉納したものであるという。これほど巨大な石碑を個人建立とは、どんな富裕層なのだろうかと思ったが、それよりも、恥ずかしながら、私はここが遣唐使船の船出の地であったと...
整形外科の先駆・各務文献先生報恩供養
- 2019/10/20
- 23:25

今日は、我が国整形外科学のパイオニアである各務文献先生の法要で、夕陽丘の浄春寺へ。昨年の10月14日が、ちょうど文献先生の二百回忌に当たっているということで、大阪の整形外科医の有志と共に、庵主も実行委員として参加させて頂き、黒御影製の立派な顕彰碑を山門脇に建立させて頂いてから、早一年になる。今年は14日が祭日であった為、命日に開催する事も検討されはしたのだが、連休は参加が難しくなる方も出てくる事が予想さ...
柳津虚空蔵尊~医史跡番外編~
- 2019/09/10
- 18:23

福満虚空蔵尊圓蔵寺(福島県河沼郡柳津町柳津字寺家町甲176)昨年、猪苓を求めて福島のブナ林を探索した際、柳津の福満虚空蔵に立ち寄る機会を得た。矢数道明氏の「道三・三喜邂逅の地「柳津」考」(漢方の臨床・1984年2月号)によると、この場所こそ、曲直瀬道三と田代三喜邂逅の地であるという。享禄四年十一月、道三はこの虚空蔵に参詣し、医家たらんとする決意の祈願を立てたが、このとき奇しくも、足利学校で講演を聴いて感銘...
田中愿仲の墓~兵庫漢方史跡~
- 2019/09/07
- 14:40

田中愿仲墓東洞の門人・田中愿仲(1732~1792)は、享保十七年に播磨で生まれ、字は愿仲、号を張海といった。一般には、それほど有名な医家ではないかもしれないが、畑黄山の『斥医断』を駁した『弁斥医談』や、証候別に『傷寒論』『金匱要略』の条文を組み替えて処方を付した『長沙正経証彙』などの著述があり、いずれも春光苑時代にテキストに用いて勉強した庵主としては、割に親しみのある医家であったりする。殊に『長沙正経証...
永富独嘯庵発掘の功労者・木山芳朋先生のこと
- 2019/08/04
- 13:44

戦前、永富独嘯庵研究の第一人者として知られたのは、医史学の泰斗・富士川游で、戦後は寺師睦宗先生や我が師・粟島行春先生らが、それぞれ私淑して熱心に顕彰活動に取り組まれたが、それら諸家の影に隠れ、今では医史学者の間ですら、その名が殆ど知られていない独嘯庵発掘の功労者が居る。その功労者・木山芳朋先生(1914~1977)については、今日独嘯庵に特別の関心を持つ一部の人だけが知る存在で、著述としては『独嘯庵』およ...
小田亨叔と敬業館
- 2019/08/01
- 18:00

独嘯庵門の三傑と言えば、亀井南冥・小石元俊・小田亨叔であるが、このうち小田亨叔だけは独嘯庵の実弟、つまり血縁者である。安永三年(1774)、28歳の時、藩公の命により藩医・小田雲同の養子となった。功山寺の小田家墓所それぞれ、右が小田亨叔、中央が養子の南陔、左が南陔の後を承けた嶽陽の墓碑。寛政四年(1792)5月、長府藩第十代藩主毛利匡芳(1758~1792)により藩校「敬業館」が創設されると、亨叔は都講兼医員に任ぜ...
永富独嘯庵を求めて①
- 2019/07/25
- 20:44

木山芳朋著『独嘯庵』の記述を手掛かりに、義士坂にあるという独嘯庵の生家・勝原家の墓所を探索して二度惨敗を喫したのは2016年のことであったが、帰阪後、SNS上で独嘯庵について発信している日高栄美子女史のことを知り、早速コンタクトを試みたところ、これが契機となって、女史の全面的な協力を得ることになった。日高女史は、地元の郷土史研究グループの一員で、たまたま木山氏の実家で墓所の墓守をしていた新田家と関わりが...