医家後藤家墓所整備事業のこと
- 2020/04/16
- 18:30

昨年から進められた医家後藤家の墓所整備事業では、まず、墓地内に散在する医家後藤家の各墓碑を一か所に纏める事が計画されたが、昨今あちこちで行われている壁際に一纏めにして押し込める無慈悲極まりない無縁整理のような事は勿論出来ないので、複数の移転先候補があった中から、上品蓮台寺側の意向を汲んで最終的に後藤栗庵の墓碑のあった区画に全ての墓碑を集める事に決定した。最初は、後藤艮山の墓碑を移動させずに、その周...
大慈院後藤艮山一族墓所整備なる!
- 2020/04/13
- 18:26

上品蓮台寺大慈院墓地昭和の一時期、江戸時代の先学先賢を顕彰する或る種のブームに沸いた時代があって、安岡正篤氏が関係した事業が多かったと聞いているが、医学分野では矢数道明先生が積極的に働きかけられ、漢方医家の墓所整備や顕彰碑建立があちこちで行われた。もっとも、最近では旗振り役の不在に各団体における財政状況の悪化、加えて目ぼしい人物は既にあらかた手が付けられた事もあって、あまり類似の顕彰事業は行われな...
薬井~医史跡番外編~
- 2019/11/26
- 19:40

薬井(奈良県北葛城郡河合町)奈良への行き帰りで毎度目にして気になった地名と言えば、雷火豊を彷彿とさせる蔀屋などがそうであるが、北葛城郡の薬井も何年か前から気になっていた場所であった。ただ、通りかかるのが大抵夜中であったことと、薬井交差点の付近には如何せん車をとめられる場所が皆無の為、かなり遠くに駐車してからの徒歩散策を強いられるから、中々機会を持てずに居たのだが、先日ようやく意を決して、わざわざ此...
遣唐使進発の地碑~医史跡番外編~
- 2019/11/23
- 21:13

遣唐使進発の地碑(住吉大社西大鳥居前)縁あって月に一度は、大阪の住吉大社に参拝させて頂いているのだが、年明け暫らくして参拝した際、西の大鳥居前に、えらく立派な石碑が建立されているのが目にとまった。平成三十年十二月に堺市の田中孝司という人が奉納したものであるという。これほど巨大な石碑を個人建立とは、どんな富裕層なのだろうかと思ったが、それよりも、恥ずかしながら、私はここが遣唐使船の船出の地であったと...
整形外科の先駆・各務文献先生報恩供養
- 2019/10/20
- 23:25

今日は、我が国整形外科学のパイオニアである各務文献先生の法要で、夕陽丘の浄春寺へ。昨年の10月14日が、ちょうど文献先生の二百回忌に当たっているということで、大阪の整形外科医の有志と共に、庵主も実行委員として参加させて頂き、黒御影製の立派な顕彰碑を山門脇に建立させて頂いてから、早一年になる。今年は14日が祭日であった為、命日に開催する事も検討されはしたのだが、連休は参加が難しくなる方も出てくる事が予想さ...
柳津虚空蔵尊~医史跡番外編~
- 2019/09/10
- 18:23

福満虚空蔵尊圓蔵寺(福島県河沼郡柳津町柳津字寺家町甲176)昨年、猪苓を求めて福島のブナ林を探索した際、柳津の福満虚空蔵に立ち寄る機会を得た。矢数道明氏の「道三・三喜邂逅の地「柳津」考」(漢方の臨床・1984年2月号)によると、この場所こそ、曲直瀬道三と田代三喜邂逅の地であるという。享禄四年十一月、道三はこの虚空蔵に参詣し、医家たらんとする決意の祈願を立てたが、このとき奇しくも、足利学校で講演を聴いて感銘...
田中愿仲の墓~兵庫漢方史跡~
- 2019/09/07
- 14:40

田中愿仲墓東洞の門人・田中愿仲(1732~1792)は、享保十七年に播磨で生まれ、字は愿仲、号を張海といった。一般には、それほど有名な医家ではないかもしれないが、畑黄山の『斥医断』を駁した『弁斥医談』や、証候別に『傷寒論』『金匱要略』の条文を組み替えて処方を付した『長沙正経証彙』などの著述があり、いずれも春光苑時代にテキストに用いて勉強した庵主としては、割に親しみのある医家であったりする。殊に『長沙正経証...
永富独嘯庵発掘の功労者・木山芳朋先生のこと
- 2019/08/04
- 13:44

戦前、永富独嘯庵研究の第一人者として知られたのは、医史学の泰斗・富士川游で、戦後は寺師睦宗先生や我が師・粟島行春先生らが、それぞれ私淑して熱心に顕彰活動に取り組まれたが、それら諸家の影に隠れ、今では医史学者の間ですら、その名が殆ど知られていない独嘯庵発掘の功労者が居る。その功労者・木山芳朋先生(1914~1977)については、今日独嘯庵に特別の関心を持つ一部の人だけが知る存在で、著述としては『独嘯庵』およ...
小田亨叔と敬業館
- 2019/08/01
- 18:00

独嘯庵門の三傑と言えば、亀井南冥・小石元俊・小田亨叔であるが、このうち小田亨叔だけは独嘯庵の実弟、つまり血縁者である。安永三年(1774)、28歳の時、藩公の命により藩医・小田雲同の養子となった。功山寺の小田家墓所それぞれ、右が小田亨叔、中央が養子の南陔、左が南陔の後を承けた嶽陽の墓碑。寛政四年(1792)5月、長府藩第十代藩主毛利匡芳(1758~1792)により藩校「敬業館」が創設されると、亨叔は都講兼医員に任ぜ...
永富独嘯庵を求めて①
- 2019/07/25
- 20:44

木山芳朋著『独嘯庵』の記述を手掛かりに、義士坂にあるという独嘯庵の生家・勝原家の墓所を探索して二度惨敗を喫したのは2016年のことであったが、帰阪後、SNS上で独嘯庵について発信している日高栄美子女史のことを知り、早速コンタクトを試みたところ、これが契機となって、女史の全面的な協力を得ることになった。日高女史は、地元の郷土史研究グループの一員で、たまたま木山氏の実家で墓所の墓守をしていた新田家と関わりが...
大塚敬節先生記念碑~高知漢方史跡~
- 2019/03/04
- 18:05

昨年9月、六年ぶりに自らの意志で植物園に出向いたという風に書いたが、これは正確な書き方ではなかった。私の目当ては植物園そのものにはなく、薬用植物区に建立された大塚敬節先生の記念碑にあったからで、目的物が植物園内にある為、そこに辿り着くには入園せざるを得なかったというのが正しい。とすれば、はやり自らの意志で植物園に出向いたのは、後にも先にも一度きりということになる。それは兎も角として、目当ての碑は、2...
各務文献二百回忌法要
- 2018/10/14
- 23:14

浄春寺にて今日10月14日は、大阪の医家・各務文献(1755~1819)の二百回忌に当たり、墓所のある口縄坂浄春寺にて法要が営まれたので参列して来た。各務文献は、今日では整骨の先駆として、いずれかと言えば柔道整復師の間で知られているそうであるが、もともとは産科から出発し、のち解剖を重ねて骨関節の運動機能を明らかにするなど、我が国の整形外科医の鼻祖でもあり、かの華岡青洲と同時期に麻酔にも取り組んでいて、今日人口...
華岡青洲分墓~富山漢方史跡~
- 2017/12/26
- 16:59

華岡青洲分墓(海岸寺/富山県富山市梅沢町3-19-27)和歌山にある華岡青洲の墓は何度か訪れているが、昨年小太郎の『漢方研究』(8月号)に載った服部征雄先生(富山大名誉教授)の記事「富山海岸寺の華岡青洲の墓」によって、北陸に青洲の関連史跡があることを教えられた。この墓碑は、青洲の十三回忌(1847年)に、門弟の西野大珉が分骨を許されて海岸寺に建立したものという。和歌山の華岡家墓地に「門人越中西野元甫敬建」と刻...
堀元厚の墓~京都漢方史跡~
- 2016/12/16
- 18:47

堀元厚墓(誓願寺墓地/京都市中京区新京極三条下ル桜之町453)本居宣長の師・堀元厚(1686~1754)は、貞享三年に山城山科西山村で生まれ、名は貞忠、字を元厚といい、北渚・釣雪と号した。医を小川朔庵に学び、京都で開業。椋梨一雪(1621~1680)に学んで俳諧を能くし、また能も嗜み「能火消」と称された。著述に、『医学捷径』『医学須知』『医経名数』『嘔吐乾嘔噦欬逆攷』『痘疹辨義』など。ハカマイルの大先輩・多留惇文先生...
浅井周伯の墓~京都漢方史跡~
- 2016/12/15
- 18:14

浅井周伯墓(妙満寺/京都市左京区岩倉幡枝町91)岡本一抱らと共に味岡三伯門の四傑に数えられる浅井周伯(1643~1705)は、寛永二十年に浅井将成の男として生まれ、名は正純、通称を周伯・周璞といい、策庵と号した。著述に、『切紙之辨』『三臓之辞』『難経本義紀聞』『霊枢辨鈔』などがある。その事績については余り詳らかでないが、子の東軒(1672~1753)が尾張侯に招かれて以降、代々尾張藩医として仕え、その系譜から出た貞...