奇妙なものアレコレ~掃苔こぼれ話~
- 2016/12/27
- 18:36

2009年の3月に初めてハカマイルというものを体験してから漢方医やら易儒やらの墓碑を追い求めてもうすぐ8年になろうとしている。まさに光陰矢の如しであるが、その間、掃苔した箇所は恐らく400を優に超えていよう。漢方医と易儒はほとんど全て蒼流庵随想にて紹介済みであるが、それ以外の分野もいくらか手を付けているから探墓に成功した実数だけで400は軽く超えている筈で、結局見つからずに終わったものを入れれば、600近くにな...
山梨稲川の墓
- 2016/12/26
- 18:26

山梨稲川墓(崇福寺/静岡市駿河区稲川1-3-17)山梨稲川(1771~1826)という学者の存在を庵主に知らしめたのは、湖南の『先哲の学問』であった。本来なら、昨年説文解字に触れたついでに其の墓所をご紹介したかったところなのだが、掃苔が叶ったのはつい先日のことである。山梨稲川は、明和八年に山梨維亮の四男として生まれ、名は治憲、字は玄度・叔子、通称を東平といい、稲川・昆陽山人・不如無斎・於陵子・煙霞都尉・山野聱民...
謎の木村方斎
- 2016/12/23
- 13:22

木村方斎先生墓(瓜破霊園)今年初め、我が家の累代墓を清掃する為、大阪市平野区の瓜破霊園を訪れた際、霊園東南にあるトイレ横の無縁墓域が気になって何とはなしに眺めていると、「木村方斎先生墓」と刻まれた墓碑が目に留まった。木村方斎(1853~1886)は、藤沢南岳に学び、明治十九年に三十四歳で早世した漢学者で、天王寺区生玉寺町の清恩寺に葬られ、墓碑は現在同寺の無縁墓域中に押し込められている。方斎先生墓碣(清恩寺...
木村敬二郎を探して③
- 2016/12/22
- 18:24
これまでの調査で、『大阪訪碑録』に云う敬二郎の“家業”が、酒造業であったことが判明した。敬二郎は三宅橋本氏の次男坊で、道修町で酒造業を営む木村伊太郎の娘婿となって分家し、自身も酒造業を営んでいた訳だ。『大阪現代人名辞書』には娘が二人居たと記載されており、一人は明治24年生まれの木村みね、もう一人は明治27年生まれの木村しつである。男子がなかったようであるから、敬二郎の木村家は一代で絶家したものかも知れな...
木村敬二郎を探して②
- 2016/12/22
- 06:14

図書館の郷土資料コーナーでふと手にした『大阪現代人名辞書』(文明社/大正2年刊)に木村敬二郎の名を見出したのは今年三月のことで、大変に驚くと共に、その生涯の謎に包まれていた理由の一端を垣間見た気がした。同書の「木村伊太郎」なる酒造業者の項には、明治二年生まれの姉が文久元年生まれの敬二郎なる人物に嫁いだとあり、この敬二郎は大阪府の平民・橋本加九十郎の二男とある。『大阪人物辞典』では、訪碑録凡例項の「六...
木村敬二郎を探して①
- 2016/12/21
- 18:22
偉大な仕事を成し遂げたアマチュアと凡庸な専門家とでは、孰れがより後世を裨益するものか、態々申し述べるに及ぶまいが、前者は後者に比して名前が残り難いのは不可思議なことだ。先にご紹介した寺田貞次先生など、百年前の著述が種々の学界を未だに裨益し続けているアマチュアの業績の好例と言って良かろうが、京都大学教授まで務めた学者であるにも関わらず、その業績が趣味の分野である為か、顕彰する目的で文を起こす人すら殆...
泊園書院跡碑
- 2016/12/21
- 06:04

明治六年の藤沢南岳による再興から三年後、泊園書院は淡路町一丁目東北角に移転され、昭和三十五、大阪市教育委員会によって泊園書院跡を示す碑が淡路町一丁目4-4に建てられた。庵主が此の碑を見る為、同地を訪れたのは本年初めのことであるが、ビル工事の為、養生されていて碑を目にすることが出来ず、四月半ばに再訪したところ、なんと解体工事の際に落下物の直撃を受けて、泊園書院跡碑は根元からボッキリと折れて仕舞っていた...
泊園書院址碑
- 2016/12/20
- 18:19

泊園書院址碑(関西大学以文館北側)藤沢東畡が文政八年(1825)に興した泊園書院は、のちに関西大学の源流の一つとなった漢学塾で、幕末期にはかの懐徳堂をもしのぐ大阪最大の私塾として栄えた。明治六年には、東畡の子・南岳によって再興され、その学徳を慕って全国から学生が集まったが、その中に木村敬二郎も居たようである。泊園書院の場所は何度も変わっていて、文政八年に東畡が始めたのは現在の淡路町五丁目で、南岳が明治...
藤沢東畡・南岳の墓
- 2016/12/19
- 18:16

藤沢南岳墓(齢延寺/大阪市天王寺区生玉町13−31)木村敬二郎の師・藤沢南岳(1842~1920)は、天保十三年に藤沢東畡の長男として讃岐大川郡引田で生まれ、名は元章、字は君成、通称を恒・恒太郎といい、南岳・醒狂・醒狂子・香翁・七香斎主人・九々山人と号した。家学を受けて高松藩に仕え、大阪に在って父より塾舎泊園書院を継いだ。尊王の志篤く、佐幕派の藩を官軍に帰順させることに尽力し、藩の保全に努めた。その後、藩政に参...
『大阪訪碑録』と木村敬二郎
- 2016/12/18
- 14:17

『大阪訪碑録』木村敬二郎著(『浪速叢書』10巻所収/1929年刊)京都に寺田貞次の如き偉大な掃苔家が居たように、大阪にも“浪速版寺田貞次”とでもいうべき人物が居た。その名を木村敬二郎といい、その仕事は1929年に『浪速叢書』の一冊として刊行された『大阪訪碑録』で知ることが出来る。この本は、寺田貞次の『京都名家墳墓録』と比べると、完成度の点では抗し難い。収載されている件数はずっと少ないし、墓碑の形状や位置、子孫...
『京都名家墳墓録』の著者・寺田貞次先生
- 2016/12/17
- 11:46

『京都名家墳墓録』寺田貞次著(村田書店/1976年復刊)いやしくも掃苔を志す者なら、寺田貞次(1883~1946)という恐らくは空前絶後の掃苔家の名を一度は目にしたことがある筈だ。我々は普通その名を『京都名家墳墓録』の著者として記憶にとどめている。大正11年、山本文華堂より上下二巻本として上梓されたこの書物は、京都に纏わる歴史上の人物約4800名の墓所を丹念に調査記録した労作で、今となっては剥落して判読出来ないもの...
熊本地震の惨禍
- 2016/12/13
- 18:30

村井家墓所(万日山/熊本市西区春日)11月の第一週、2011年3月以来、久方ぶりに九州入りする機会を得た。目的は言わずもがなであるが、熊本市街地の墓地の目を覆うような惨状は今も脳裏に焼き付いて離れぬ強烈な印象を残している。熊本入りの前日、大分で倒壊した西崦精舎の記念碑を見て、予想していたとはいえ、古い墓碑の殆ど95%が横倒しのまま放置されているのは、掃苔家の端くれとして心が痛まずには居られぬ。10月に福島県...
細井平洲の墓
- 2016/08/31
- 20:41

細井平洲墓(天嶽院/台東区西浅草3-14-1)細井平洲(1728~1801)は、享保十三年に尾張知多郡平島村(現愛知県東海市)の農家細井甚十郎正長の二男として生まれ、名は徳民、幼名は外衛、字は世馨、通称を甚三郎といい、平洲・如来山人・翕坡叟・嚶鳴館と号した。初め尾張加家村観音寺の住職義寛に学び、十六歳の時に京都へ遊学して、有栖川宮職仁親王(1713~1769)に和歌を学んだ。延享元年(1744)、名古屋の中西淡淵(1709~175...
松崎慊堂の墓
- 2016/08/30
- 19:59

松崎慊堂墓(長泉院/目黒区中目黒4-12-19)私は儒者といっても所謂易儒以外にはそれほど興味を持って調べてこなかったのだが、以前まとめて安岡正篤先生の本を読んだ際、何度も触れられていて印象に残ったのが、松崎慊堂や細井平洲といった学者で、昨夏、上京の折に掃苔して来た。松崎慊堂(1771~1844)は、明和八年に肥後国益城郡木倉村(現・熊本県上益城郡御船町)に生まれ、名は圭次・密・復、字を退蔵・希孫・明復といい、木...
谷三山の墓
- 2016/08/29
- 18:41

谷三山墓(八木醍醐共同墓地/奈良県橿原市南八木町)森田節斎と交流した儒者に谷三山(1802~1867)という聾儒が居る。享和二年に大和高市郡八木の米殻商・谷重之の次男として生まれ、名は操、幼名は市三、字は子正・存正(存誠)、通称は初め新助、のち昌平といい、三山・淡庵・淡斎・繹斎・相在室と号した。十一歳で耳目の病を得、十四歳の時に完全に聴力を失ってしまうが、独学で正史・経伝に通じ、家塾興譲館を開いて諸生に教...