注釈史から見た文化の五百年周期説
- 2021/03/14
- 10:24

かつて、百目鬼恭三郎が、古典の注釈史から割り出された文化の周期性について面白い仮説を提示した事がある(『たった一人の世論』26p~29p)。中国では古来、古典の注釈が文化の中心事業のようになっているが、注釈というものは古典の意味がそのままでよく分かる時代にはそもそも不要で、意味が通じなくなって来て初めて注釈の必要性が出て来る訳だ。古典の意味が通じなくなるということは、それとセットになっている諸文化の意味...
経書の読み方
- 2021/03/08
- 19:11
公田易にせよ今井易にせよ、何やら難しくて分厚い本と格闘していると、いっぱしの易学者になったような錯覚に陥りがちである。実際にそういう人を時折見かけるが、経書には正統な読み方というのがあって、かかる諸説を折衷した書物を読んで判ったような気になるのは所詮素人の範疇であると言う他ないようだ。狩野直喜は漢文研究法の第五講で此の事について簡潔に述べており、「すじを正して」読むべき事を力説しているのだが、経学...
出土資料に対する不安
- 2020/12/29
- 10:37
自分が古書の鑑定について素人であるという事も関係しているとはいえ、昨今の出土資料ブームに対して感じる不安は、やはり其の資料が本物であるのかどうかという点で、これは独り庵主のみが抱いている感覚ではない筈であるが、不思議と同じ不安を吐露する人の少ない印象がある。“ゴッドハンド”こと藤村新一氏が世間を騒がせた旧石器捏造事件から今年でちょうど20年になるが、あれだって毎日新聞の記事が無かったら発覚はもっと遅れ...
『論語』における隠者
- 2020/07/10
- 18:14

『論語』には賢愚善悪様々な人物が登場し、それらに対する孔子の評も面白いものだが、私が取り分け魅力を感じるのは、儒者やその理想像たる古聖賢などよりも、寧ろ狂接輿や長沮・桀溺といった所謂“隠者”、つまりは孔子らが理想としなかった一群の人々である。しかし、それらの人物に対して、孔子は自分とは異なる道に属する人々であるという認識を示して居ても、決して彼らを否定したり、見下したりしている訳でない事は『論語』を...
ようこはよいこ?
- 2020/07/07
- 18:11

歴史というのは、常に勝者の手によって著される為に、敗者の側が悪し様に描かれるのは避けがたいが、あまりに酷くなると時に実際の史実とはかけ離れたものになるという危険性を持っている。正確に言うなら、歴史というのは元来体制の正統性を担保する為に書かれたのが最初であって、よく言われるような客観的な歴史であるとか科学的な歴史学というのが本来は虚構に過ぎないのだ。もっとも、執筆者によって覆われた側面に光を当てる...
不惑之年
- 2020/07/05
- 10:31

俗に“論語読みの論語知らず”等というが、『論語』を“読む”という事がどれほど大変であるのかは先述したし、徂徠の如き非凡なる『論語』読みでさえ、其の身に孔子の精神を体現出来ていない事からすると、本当の意味で言えば、“論語読みの論語知らず”という境地といえど、そう容易には見出し得ないものであるという気がする。実際には、『論語』の意釈訳解の類さえ通読する事なく、慣用句と化した孔子の言葉を的外れに引用し、教養人...
論語と徂徠と仁斎と
- 2020/06/19
- 09:22

長らく東洋に於ける学問の底流であったと言っていい儒教の思想では、学問は即ち人格錬磨を目的とするものということになってはいるが、それはあくまでも建前上の話であって、前漢は武帝の時代に国教化されるに至ってそれは何よりも立身出世の手段に成らざるを得なかったし、それどころか、孔子の時代に於いてさえ、其のスクールは畢竟政治の場で活躍する人材を養成するものであった事を考えれば、何のことはない、御大層な名分を掲...
加上説から見た古代支那思想
- 2017/01/28
- 00:38

経書の中でも、易経には伏羲やら文王といったカリスマ的な要素が取り分け多く絡み付いているが、このようなハッタリを効かせなければならなかったという辺りにも、その出現の遅いことが窺われる。内藤湖南は、富永仲基の加上説を中国思想史に適用して大変面白い考察を加えているので、ご紹介したい。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~この説によれば、中国で最初に学問を興したのは孔子であり、孔子時代の人...
内藤湖南先生頌徳碑
- 2016/12/25
- 13:16

内藤湖南先生頌徳碑(十和田中学校/鹿角市十和田毛馬内上土ケ久保22-1)大湯川沿いの鹿角市立十和田中学校の駐車場には、内藤湖南の巨大な頌徳碑があり、これは湖南関係のモニュメント中最大のもので、昭和32年に毛馬内小中学校同窓会の創立六十周年を記念して建てられたものである(別にこの動機は湖南とは関係ないような?)。もとは毛馬内中学校の中庭に在ったが、昭和45年に同中学校は近隣の中学校と統合されて廃校となり(統...
内藤湖南旧宅~蒼流庵、蒼龍窟へ行く~
- 2016/12/25
- 09:40

内藤湖南旧宅鹿角市先人顕彰館の200mほど南には、明治13年、湖南十五歳の時に父十湾が建てた蒼龍窟があり、改装を経てはいるものの、未だ御子孫がお住まいで、門には「文学博士 故内藤虎次郎郷宅」の表札と、吉田晩稼書・内藤十湾刻の扁額「蒼龍窟」が掛かっている。“蒼龍窟”は禅籍の『碧巌録』三則にある「為君幾下蒼龍窟(君が為に幾たびか下る蒼龍の窟)」より採られたもので、河井継之助(1827~1868)も亦この号を用いた。な...
内藤湖南生誕地
- 2016/12/24
- 15:53

内藤湖南先生誕生地碑仁叟寺の南西40mほどの地点にあるのが、郷賢顕彰会によって昭和36年に建立された写真の生誕地碑である。しかし、実際の生誕地はここより約20mほど西方で、現在の碑は区画整理による道路拡幅に伴って、平成9年に移転されたもの。鹿角市先人顕彰館(秋田県鹿角市十和田毛馬内柏崎3-2)近くにある鹿角市先人顕彰館には、湖南の令孫・泰二氏によって寄贈された湖南愛用の品々が展示されていて、入館料210円の元は...
内藤湖南遺髪塔
- 2016/12/24
- 08:51

内藤湖南遺髪塔(仁叟寺/秋田県鹿角市十和田毛馬内番屋平26)内藤虎次郎(1866~1934)の号“湖南”は、生まれ故郷の陸奥国毛馬内村(現秋田県鹿角市)が十和田湖の南に位置していることに由来するもので、工藤新一とは何の関わりもない。庵主は京都の法然院にある真墓は早くに掃苔していたが、故郷の鹿角には中々足を運ぶ機会を持てずに七年の歳月が過ぎて行った。ようやく湖南の関連史跡を完全制覇する機会に恵まれたのは、本年10...
浅学菲才の中国哲学教室
- 2016/07/12
- 18:12

浅学菲才の中国哲学教室は、私の好きなサイトの一つで、先日ご紹介した「中国古典叢書内容簡介」はこのサイト中の一頁である。作者の罔殆庵々主氏は、東洋大で中哲を学んだ方らしい。白水社にお勤めで、専門の研究者ではないようだが、つまらぬ文化事業よりも素人の手作りサイトのほうが遥かに内容が豊かであるという典型のようなサイトである。残念ながら最近は更新がないようで、リンク切れになっているページが随分あるのが惜し...
日本漢学史上における僧玄光
- 2016/03/07
- 18:09

私が江戸初期に出た玄光(1630~1698)という学僧の存在を知ったのは、神田喜一郎先生の「日本漢学史上における僧玄光」という小篇(『神田喜一郎全集Ⅱ』所収)によってであった。この神田先生の小篇によって光を当てられるまで、玄光の存在は我が国の漢学史上においても仏教史上においても、全く忘れられた存在であったと言って良い。ちょうど師の内藤湖南が富永仲基を発見したようなものである。もっとも、仲基の場合は、それ以...
白鳥庫吉の墓
- 2016/02/07
- 06:39

白鳥家之墓(雑司ヶ谷霊園/東京都豊島区南池袋4-25-1)戦前、我が国の東洋史学において、内藤湖南と双璧を成した白鳥庫吉(1865~1942)の墓所は、東京の雑司ヶ谷霊園にある。内藤湖南と邪馬台国の所在地を巡って論争を繰り広げたのは余りにも有名(湖南は邪馬台国畿内説を主張し、庫吉は北九州説を主張した)。学習院教授、東京帝国大学文科大学史学科教授を歴任し、東宮御学問御用掛として皇太子時代の昭和天皇の教育にも関わっ...