竹田泰彦先生
- 2014/03/13
- 20:56

在りし日の竹田泰彦先生竹田泰彦先生(1938~1994)は、竹安先生の弟分だった方で、独自に八面体質論を発展させた研究者でもある。阪神ファンに居そうな面構えであるが、奥方によると巨人ファンだったらしい(私の人相術のレベルなど所詮こんなものか・・・)。竹田先生も湧永製薬の御出身で、竹安先生と同じく『実占研究』に「玄竜子相法私見(のち八面研究と改題)」を連載されていた。蒙色と八面体質論でいえば、臨床家であった...
蒙色望診副読本
- 2014/03/12
- 20:59

竹安輝高先生が、『実占研究』に長らく連載された「蒙色望診副読本」は、“副読本”という控えめな三字が付いているけれど、蒙色望診に関する最も有益な文献であろう。蒙色望診を臨床に応用する上で、この一連の連載以上に価値を持つものは現在のところ他に無い。私は竹安先生とは残念ながら御目にかかる御縁がなかったが、先生のお人柄は解るような気がする。先生は、目黒師を心から尊敬して師説に忠実であり、その上に御自身の発見...
『八面体質論詳解』竹安輝高著・序文
- 2014/03/11
- 19:30

学校を出て、薬剤師の資格をとって、人並みに薬関係の勤めをもって、僕としては必要に迫られてではあったけれど、仲間から「妙なものをやりだしたな」とか「変ってるな」とか言われる研究に入ったのは、昭和二十何年かで、第一に手をつけたのは「易学」であった。今にして思えば、これは間違いなかった。「易学」といっても“雑占”のたぐいではなく、東洋のあらゆる学問と深いかかわりのある「易経」をもとにした易学である。(ここ...
竹安輝高先生
- 2014/03/10
- 18:47

『蒙色望診通信講座』竹安輝高著竹安輝高先生(1928~1988)は、二代目玄龍子の高弟で、三代目曰く「もっとも蒙色望診を使いこなした」俊才であり、『実占研究』廃刊まで長らく「蒙色望診副読本」を連載された。麻野勝稔先生とは、歳も入門の時期もほぼ同じだったそうだが、ある時期から竹安先生は相法と占星術(最近判ったことだが、畏友青木良仁先生とは同門だったらしい。)に力を入れて研究されるようになり、麻野先生は紀藤式...
『都市の見えないメカニズム』目黒一三著
- 2014/03/09
- 19:31

『都市の見えないメカニズム』目黒一三著エンジニアが本業であった為であろうが、三代目玄龍子・目黒一三先生の著作は少なく、『実占研究』に連載されたものは、当時絶版で稀覯書だった『玄龍子相法』を読者の便を考えて再録されたものであったし、東洋書院版の『相法原基』は二代目との共著という形をとっていて、三代目のオリジナルではない。あれだけの方であるのに、単独で上梓されたものは『都市の見えないメカニズム』(東洋...
三代目目黒玄龍子先生
- 2014/03/08
- 16:58
三代目玄龍子である目黒一三先生(1941~)とは、蒼流庵主人かつて一面識あり、これまでご紹介した逸話のいくつかは、直接一三先生より伺ったものである。要太郎先生も八朗先生も人相家として生計を立てておられたが、一三先生はエンジニアで(もっとも八朗先生もエンジニア出身で、理系の頭脳は先代譲りらしい)、弟の目黒一八氏と共に目黒株式会社を経営されていた(代表取締役目黒一八氏)。長らく小さな町工場だったそうだが、...
目黒玄竜子さんと私
- 2014/03/07
- 19:21

晩年の紀藤元之介先生(昭和54年、春日大社にて)二代目と私とは、十ぐらい年齢にひらきがあった。彼は、東京下町のチャキチャキ、私は神奈川在のイナカッペだから、合うはずはないのだが、何となくウマが合った。人相見と易者、という同業意識より、お互いヒドイ貧乏人どうしだったから、「同病相憐れみ」合った。又、お互い狷介不羈だったから、「同気相求む」だったのかもしれない。安酒二合ぐらいを飲み分ける仲だった。二代目...
玄龍子会跡を探して
- 2014/03/06
- 18:29

初代目黒玄龍子先生は東京日本橋で活躍されたが、二代目は日本橋から大阪に移って活動された。来阪の正確な年代は不明であるが、恐らく戦火を逃れての移動だったのであろう。初代玄龍子先生の義父・岡部長職母方の祖父・岡部長職(1855~1925)は、和泉岸和田藩最後の藩主であり(外務次官、司法大臣、東京府知事、枢密顧問官などを務めた。岡部家の関係により、玄龍子先生は岩崎弥太郎や加藤高明、幣原喜重郎といった人たちと親戚...
易経と内経
- 2014/03/05
- 19:08

「易経と内経」(『二十一世紀の医学・蒙色望診(全)』より)二代目目黒玄龍子先生の著『二十一世紀の医学・蒙色望診(全)』の巻末に「易経と内経」と題した論考が収載されており、実は私は本編よりも此の30頁に満たない小論の方が気に入っていたりする。易経が中国医学の源流になっていると説いた本は多いが、これまで私が読んで関心した本は一冊もない。大抵は、易経と中国医学が密接な関わりがあると連呼を繰り返すだけで、最...
蒙色望診
- 2014/03/04
- 18:31

若き日の二代目玄龍子先生二代目玄龍子先生の研究は、人相のみに留まらず、鬼門の研究や家相による発病の電磁的研究(これなどは楢崎皐月の静電三法やジオパシックストレスに通ずるものであろう)にまで及ぶが、最も有名なものは “蒙色望診・八面体質論”であろう。紀藤先生の最初期の門人で、玄龍子先生の直門でもあった渡辺観岳先生(元実占研究会会長)は、「二代目が蒙色望診を発見されたのは、林文嶺が画相を発見したのに匹敵...
二代目目黒玄龍子先生
- 2014/03/03
- 23:58

晩年の二代目玄龍子先生二代目玄龍子・目黒八朗先生(1905~1962)は、東京日本橋に生まれ、東京府立化学工業学校(のちの文理大)応用化学科を次席で卒業後、海軍技術研究所の電気研究部に勤務し、海軍の秘密特許六件を取得したという秀才である。幼時から初代玄龍子先生について人相学を反復聴講し、中村文聰先生と机を並べたという。帝国人相学院から昭和3年に出版された『玄龍子相法』(現在、東洋書院より復刊)は、初代二代...
帝国人相学院跡を探して
- 2014/03/02
- 12:16

晩年の初代目黒玄龍子初代目黒玄龍子先生(1873~1938)の活動拠点であった帝国人相学院は、東京の日本橋に在ったが、その場所は今どうなっているのだろうかとフト思い立ち、手元にある古い著述の奥付を見ると、住所がそれぞれ違っていることに気付いたのが一昨年のことである。明治44年には「東京市日本橋区通り2丁目15番地」、大正5年には「東京市日本橋区通り2丁目11番地」、昭和11年には「東京市日本橋区通り2丁目3-3」となっ...
「石龍子と相学提要」中山茂春著
- 2014/03/01
- 13:26

「石龍子と相学提要」中山茂春著より現医療法人せいわ会みなかぜ病院院長の中山茂春先生が、『日本医史学雑誌』第55巻3号(2009)に発表された「石龍子と相学提要」は、石龍子についての第一級の研究である。中山先生は石龍子の縁者であり、丹念に資料を渉猟して、石龍子の系譜を明らかにされた。『日本医史学雑誌』は、大凡人相家の読むような読み物ではないから、ほとんどの人相家は、本論文の存在すら知らないのではあるまいか...
初代目黒玄竜子先生
- 2014/02/28
- 18:16

若き日の初代玄竜子・目黒要太郎先生初代玄竜子・目黒要太郎先生(1873~1938)は、東京は日本橋で帝国人相学院を主催し、大正~昭和初期にかけて主だった活動をされた日本相学史上の巨星で、門下からは大熊光山先生や中村文聰先生(1906~1980)といった優れた相学者を輩出した。ネット上ではどういう訳か、初代玄竜子の活動時期を「江戸時代末期から明治時代」と記載しているものがあるけれど、とんでもない誤りであり、生没年を...
永杜鷹一のはなし③
- 2014/01/04
- 15:31

年末に、林文嶺の顕彰碑を建立した元五聖閣講師の永杜鷹一について調査した経過を書いたところ、年明け早々に、永杜鷹一の令孫である田村浩一氏から御連絡を頂いた。記事を書いて間もないことであり、大変驚くと共に、こんなことなら早くブログに書いておくんだったなと後悔した次第である。私は「永杜」の姓は本名ではないと推測していたが、やはりこの推測は当たっていた。ただし、「長森」ではなく、戸籍上の本名は「田村玉置」...