市原蒼海詩碑
- 2022/03/02
- 18:10

市原蒼海詩碑(大巌寺/千葉市中央区大巌寺町180)かつて汎日本易学協会に市原蒼海(1883~1972)という長老が居て、古い『易学研究』に啓発的な優れた論考を多数発表されているが、千葉県の龍澤山大巌寺境内に逝去の翌年建立された詩碑を見ることが出来る。裏面に刻まれた略歴によると、いすみ市の生まれで、大巌寺白寿会(老人クラブの類か?)の顧問として創立以来十年に渡り「人生百二十年」と題した講義を続けられた、とある。...
イソダマイル
- 2022/02/23
- 13:02

『易学大講座』は加藤大岳氏が自ら筆を執った著作ではなく、門人らの講義ノートを文字起こしして成ったもので、第一巻々頭を飾る序言の末尾に編集委員として六名が記載されているのだが、或いは此の配列は当時の岳麓精舎に於ける序列がそのまま反映されているものであろうか。そうすると、後で門下に加わった江藤幸彦氏が先輩格の紀藤元之介氏より先に来ているのはおかしいことになるが、単純に『大講座』への貢献度の順としても、...
八卦堂跡
- 2021/11/22
- 18:24

もとより観光にはさしたる関心を持たない為、既に上京回数は数十回に上るにも関わらず、未だに足を踏み入れていない観光地が少なくない。というよりもそういった場所には殆ど行ったことが無いという方が正しいようだ。そんな風であるから小石川後楽園も名前だけは随分前から知っていたものの、実際に探訪したのはようやく一昨年のことであった。といっても、別段庭園になど興味はなく、私の目当ては園内にある「八卦堂」である。閉...
鈴木由次郎先生墓所
- 2020/02/13
- 18:34

先月、東大および国学院の付属図書館を訪問して資料を渉猟した際、天気予報に反して小雨降りしきる中、中央大学名誉教授・鈴木由次郎先生(1901~1976)の墓所をビニール傘片手に掃苔して来た。鈴木博士と言えば、言わずと知れた我が国漢易研究の第一人者であるが、『周易参同契』や『太玄経』の訳書などもあり、以前目録学の先蹤『漢書』芸文志の訳註をご紹介したことがある。乾堂また漸庵と号したというが、如何にも易に傾注した...
岡本稚川~和歌山易儒墓参録~
- 2019/09/04
- 18:07

岡本稚川墓和歌山藩士・岡本稚川(?~1792)は、名は充、字は石介・至剛、通称を八輔といい、稚川・玉藻と号した。三禮研究で知られた和歌山藩儒・川合春川(1751~1824)に学ぶ。易書に、『程伝易証』がある。...
伴信友~福井易儒墓参録~
- 2019/09/01
- 10:21

伴信友墓(発心寺/福井県小浜市伏原45-3)伴信友(1773~1846)は、安永二年に若狭小浜藩士・山岸惟智の四男として生まれ、名は信友、幼名は惟徳、通称を鋭・鋭五郎・州五郎といい、特・事負と号した。天明六年(1786)、江戸詰の小浜藩士・伴信当の養子となり、江戸へ出て御広間面番役等を勤める。文化三年(1806)、家督を嗣ぎ、藩主・酒井忠進(1770~1828)に従って、江戸・小浜・京都に在勤した。文政四年(1821)、致仕。崎...
佐々木琴台~東京易儒墓参録~
- 2019/08/28
- 18:26

佐々木琴台墓(谷中天王寺墓地)佐々木琴台(1744~1800)は、延享元年に近江で生まれ、初め田中氏であったが、近江源氏の嫡流として氏を佐々木に復す。名は世元、字は長卿、通称を源三郎・良輔・帯刀といい、琴台・仁里・彩瀾と号した。松永淵斎・村士玉水(1729~1776)・種村箕山(1720~1800)らに学び、京都・江戸で教授した。家は代々兵法を伝え、天文にも通じた。松宮観山・六如慈周(1734~1801)・山県大弐(1725~1767)...
会沢正志斎~茨城易儒墓参録~
- 2019/08/25
- 12:48

会沢正志斎墓(本法寺/茨城県水戸市千波町2367)水戸学藤田派に属する会沢正志斎(1782~1863)は、天明二年に水戸藩士・会沢恭敬の長男として生まれ、名は安、幼名は市五郎・安吉、字は伯民、通称を恒蔵といい、正志斎・憩斎・欣賞斎と号した。十歳で藤田幽谷(1774~1826)に師事、彰考館の写字生を経て、文化元年(1804)に諸公子侍読となり、後の藩主・徳川斉昭(1800~1860)を教育した。文政九年(1826)、彰考館総裁となり...
鈴木文台~新潟易儒墓参録~
- 2019/08/22
- 18:20

鈴木文台墓(長楽寺/新潟県燕市粟生津136)新潟は上越にある這蔦亭に阿波古流の茶人・関沢春人先生を訪ねた帰り、燕市に足を延ばして、易儒・鈴木文台(1797~1870)の掃苔を行ったのは、猛暑が押し寄せる直前、昨年六月の事であった。文台は、寛政八年に医師・鈴木見義の次男として生まれ、名を弘、字を子毅、通称を陳蔵といい、文台・石舟と号した。後藤託玩・太田芝山に学び、江戸に出るも病のため帰郷して私塾・長善館を開いて...
寺西易堂の墓
- 2019/08/13
- 12:21

寺西易堂墓(梅旧禅院/大阪市天王寺区夕陽丘町1-18)昨夏は、各務文献先生の法要準備や顕彰碑建立などで、何度も夕陽丘の浄春寺へ足を運んだが、或る時、実行委員長の今井秀先生のお誘いで、浄春寺の北隣にある梅旧禅院(少し前ヤクザ絡みの騒ぎがあったアソコ)の墓所を覗いてみる事になった。今井先生は斎藤方策(1771~1849)の掃苔で何度か訪れているということであったが、庵主は蘭方医には丸で関心が無いので、これまで足を...
落合東堤~秋田易儒墓参録~
- 2017/12/25
- 18:33

落合東堤墓(浄蓮寺/秋田県大仙市角間川町東本町82)落合東堤(1749~1841)は寛延二年に生まれ、名は直養、幼名は文六、字は季剛といい、東堤・守拙亭と号した。中山菁莪(1728~1805)に学ぶ。秋田藩校の教授に招かれたが固辞、寛政七年(1795)私塾守拙亭を開いて子弟を教育し、たびたび藩主に賞せられた。また、平沢久敬に従って医を修め、稲の品種改良に当り、角間川の聖人と称された。俳諧・和歌を能くした。『易経本義講義...
大原幽学~千葉易儒墓参録~
- 2017/12/24
- 12:09

大原幽学翁之墓(千葉県旭市長部)名古屋平和公園内にある大原幽学(1797~1858)の供養墓は以前記事にしているが、今回は千葉にある真墓である。本年5月に訪碑したのだが、実は全くの偶然に通りかかったもので、東北からの帰りに、山武市の稲葉黙斎の墓へ向かう道すがら、案内の標識が目に入り、足を延ばしたものだ。明け方でまだ暗く、そのうえ小雨が降っていたので、撮影のコンディションはイマイチだったが、棚ボタ掃苔なので...
稲葉黙斎~千葉易儒墓参録~
- 2017/12/23
- 18:11

稲葉黙斎墓(元倡寺/千葉県山武市成東2697)稲葉黙斎(1732~1799)は、寛政十一年に稲葉迂斎の次男として生まれ、名は正信、通称を又三郎といい、黙斎・狐松庵と号した。幼にして父に学び、長じて野田剛斎(1690~1768)に師事。諸侯に教授したが士官せず、晩年の二十年間は江戸を離れ、上総清名幸谷に隠棲して講学に専念、崎門学の継承発展に努めた。易書に、『周易本義講義』『太極図説講義』などがある。稲葉黙斎顕彰碑...
佐久間象山~長野易儒墓参録~
- 2017/12/21
- 18:54

佐久間象山墓(蓮乗寺/長野市松代町松代御安町1142)妙心寺大法院にある佐久間象山の墓は結局一度も掃苔出来ていないが、今夏長野に立ち寄った際、生誕地である松代の墓所にようやく足を運ぶことが出来た。側面には、「大正十一年十月十五日京都妙心寺内大法院ヨリ分葬ス」と刻まれており、京都のものが真墓で、松代の墓碑は分墓であることが判る。佐久間象山像(象山神社/長野市松代町松代1501)象山を祀った象山神社の鳥居前には...
細合斗南~大阪易儒墓参録~
- 2017/12/19
- 18:04

細合斗南墓(法楽寺/大阪市東住吉区山坂1-18-30)ハカマイラーとしてのキャリアを積んで来て、自分ではその力量にまずまずの自信を持っているのだが、それでも時に弘法にも筆の誤りがあるように、蒼流庵主人にも見落としや探し損ねということがないではない。例えば、写真の細合斗南(1727~1803)の墓などもその一つで、この人は混沌社に参加し、池大雅や高芙蓉らと交わった文人気質の学者であるが、多くの著述の中には『周易説統...