高島嘉右衛門の横浜四番勝負
- 2013/10/31
- 12:43
先ほど、コメント欄より素敵な情報を頂いた。有益な番組の宣伝なので、日記でもご紹介することにする。以下コメント欄より転載~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~11/1から高島嘉右衛門の実業家としても業績を紹介したテレビ番組が放映されます。制作は横浜の地方ケーブルTV局・YOUテレビですが、J-COMほか全国のケーブル局でも放映されますので、興味のある方はぜひご覧下さい。番組タイトルは、 『横...
吉凶うらなひ・井伏鱒二著
- 2013/10/30
- 15:05

加藤大岳先生は、佐藤春夫先生の門下であった関係で文壇にも少なからぬ交流をもっておられた。井伏鱒二(1898~1993)もその一人である。井伏鱒二といえば、優れた随筆も多く、蒼流庵主人の好きな作家であるが、やはり本領は小説で、50年前に友人が食べた七面鳥の値段まで覚えているという驚異の記憶力に裏打ちされた細密な描写が有名であり、原爆を扱った代表作のひとつ『黒い雨』(1966年)は、その真骨頂を見せつけた傑作である...
熊崎健翁先生
- 2013/10/28
- 18:33

若き日の熊崎健翁先生熊崎健翁先生(1881~1961)は、岐阜県恵那郡三郷村の生まれ、本名を健一郎といい(還暦に戸籍上でも熊崎健翁と改名)、熊崎家は宇多天皇の後裔で、先祖が城主であった愛媛県の熊崎城(別名鳥付城)よりとった姓という。小学校の教員を経て、1901年に中京新聞社に入社、以降三重成功新聞、伊勢新聞、大阪新報、時事新報などを記者として渡り歩き、1903年に有名な熊崎式速記を発明した。現在、熊崎式速記術を用...
懐かしの高尾
- 2013/10/27
- 19:51

平井呈一先生岳易忌の前日、一夜の宿を提供してくれたあきるの市在住のH君は蒼流庵主人の古い友人であり、かの平井呈一先生(1902~1976)の曾孫に当たる。面白い縁であるが、平井先生も佐藤春夫門下であり、翌日に墓参した加藤大岳先生とは兄弟弟子の間柄なのである。平井呈一といっても、易や漢方の世界では知らない人が多かろう。佐藤春夫と永井荷風の弟子で、俳句を河東碧梧桐に学んだ平井先生は、今でいえば大江健三郎と村上...
加藤大岳先生
- 2013/10/25
- 17:37

講演を行う晩年の加藤先生今日10月25日は加藤大岳先生(1907~1983)の命日である。“昭和の易聖”として知られる先生であるが、紀元書房から刊行された単行本には今一つその人となりを知る情報が少ないし、Wikipediaでの紹介は簡潔以外の何物でもない。そこで、今日は初学の方の為に、加藤先生のプロフィールを簡潔ではあるが、Wikipediaよりは詳しくご紹介しようと思う。加藤大岳先生は、1907年に会津の本郷焼の窯元に六人兄弟の末...
高島嘉右衛門と水戸学派
- 2013/10/24
- 19:24

私は多年、高嶋嘉右衛門先生の易学の道統に就て疑問を抱いていた。伝説的には、先生が下獄中、自己の運命を回顧し、そこから易道に入ったなどと伝へられるに過ぎなく、余りに根拠の薄弱なのを残念に思っていたのである。然るに偶々(たまたま)水戸学派の儒者詩人の伝記をひもといているうちに始めて発見したので、日本易学史の為に若干の空白を埋めるに足ると思う。 小山春山先生は、下野国真岡の産である。名は朝弘、字は遠士...
当るも八卦当たらぬも八卦
- 2013/10/23
- 20:24

在りし日の小玉呑象先生(昭和28年)当るも八卦当らぬも八卦と云う言葉が世間に云い囃されていて、これが褒めた意味か貶したわけか良く判らないので、多くの人々は只直ぐに訳もなく「当るも八卦」と冷やかし半分に云い放つのが例です。茲に聊か其の出所につき一言申しますれば、易の天地人三才の内、天道と地道とは大自然であつてこれは人力を以て如何ともすることは出来ないのですが、只人事の占いに至つては混然繁乱迂余曲折で、...
小玉呑象易談録
- 2013/10/22
- 21:56

高島嘉右衛門が、唯一“呑象”の号を使用することを許した小玉卯太郎先生(1879~1958)は、16歳の時に郷里宮崎より上京して高島嘉右衛門の門下となった人で、アメリカに渡って活躍した為、あちらではかなり有名な人物だったようだ。今回ご紹介する『小玉呑象易談録』は、小玉呑象先生の没後に、唯一の門人である平館幹象氏が、師の遺録を整理して昭和35年に上梓したもの。小玉翁の著作といえば、1924年発行の『地震の予知』という本...
ニセ高島にご用心②
- 2013/10/21
- 19:52

晩年の高島嘉右衛門(大正3年) 俗に十年ひと昔と言うが、汎日本易学協会が会員及び有縁各位の協賛を得て、高島嘉右衛門翁の顕彰碑を建立したのは昭和三十一年であつたから、ちようど十年前に当たつている。過ぎてゆく時の流れは表面は音も立てぬ静かなたたずまいで、気にもとめないほどなのに、底には急湍の勢いを有つているのか、総てのものがまたたくうちに遠く運び去られているのに今更らのように驚かされる。顕彰碑の建立を...
ニセ高島にご用心①
- 2013/10/21
- 00:03

高島嘉右衛門が易占においてあまりの名声を博した為、その存命中から“高島”姓を名乗る、所謂“ニセ高島”易者が続出した。今では易者人口そのものが激減したから、当時と比べれば或いは数十分の一程度の数かもしれないが、それでもまだ数百人程度はニセ高島が居るのではあるまいか。実際にネットで検索してみても、高島なんたらという団体が少なくないことが判るだろう。これらの団体や人物は、全てといって良いくらい、高島嘉右衛門...
高島嘉右衛門と北海道
- 2013/10/19
- 11:53

高島嘉右衛門所縁の地といえば、真っ先に思い浮かべるのは横浜に違いないが、北海道の開発にも尽力しており、、明治23年(1890年)には北海道炭礦鉄道株式会社の創立に参加し、明治25年には社長に就任、石狩、十勝では拓殖事業を行っている。明治40年には、北海道開拓の功を讃える人々によって、室蘭埠頭に嘉右衛門の銅像が建てられた。写真は、大正3年5月18日に同所の八幡神社境内へ移転した際のものである。残念ながら嘉右衛門の...
高島嘉右衛門と藍謝堂(高島学校)
- 2013/10/17
- 22:15

高島嘉右衛門は、明治3年に横浜伊勢山下に日本最初の洋学校である藍謝堂(通称「高島学校」)を創設、英仏独の三ヶ国語を教授し、別に漢学科を設け、易経を正科に取り入れ、自らも講義することにした。明治6年には、学校設立の功により明治天皇から三組の銀杯を下賜される。その後、高島学校は横浜市に寄付されたが、明治7年火災に遭い、市はこれを再建しなかった為、廃校になってしまった。700人の生徒は慶応義塾と大学南校(現在...
泉岳寺の高島嘉右衛門墓
- 2013/10/16
- 18:25

今日10月16日(10月17日未明)は、高島嘉右衛門(1832~1914)の命日である。嘉右衛門は晩年足腰が悪くなり、九年間寝たきりになった末、大正三年に八十三歳の天寿を全うし、港区高輪の泉岳寺に葬られた。法号大観院神易呑象居士同寺は赤穂浪士の墓所があることでも有名で、大抵の観光客は赤穂浪士目当てである(境内には赤穂義士記念館や吉良上野介の首を洗って主君の墓前に供えたという首洗井戸などがある)。呑象の墓は少し判り...
高島台を歩く③~かえもん公園~
- 2013/10/15
- 21:09

最後に高島台でも一番低い所に在る“かえもん公園”をご紹介する。高島山公園と汎日本易学協会の顕彰碑は其の筋では有名であるが、かえもん公園は新しいのか余り知られていないと思う。どうやらここが邸宅跡に当たっているらしい。かえもん公園横の案内板高島台の嘉右衛門事跡は、googleマップなどではさっぱりどこだか分からないので、ご参考までに地図を掲載しておく。是非横浜に行かれた際は、中華街などよりこちらを優先して散策...
高島台を歩く②~高島先生顕彰碑~
- 2013/10/15
- 20:54

高島山公園から程近い所に、汎日本易学協会が『高島易断』決定版の刊行五十周年を機会に昭和31年に建てた顕彰碑がある。建立当時は呑象永眠の高島邸の一角であった。高島先生顕彰碑呑象高島嘉右衛門先生ハ壮年明治維新ノ風雲ニ際會シ志ヲ国運ノ興隆ニ致シ近代産業ノ先駆ヲ為シ於中横浜市発展ノ基礎ヲ築ケル功績大ナリ殊ニソノ経綸ノ易理 ニ鍳テ実践セラレシハ最モ偉ナリト称スベシ仍の先生幼ヨリ周易ヲ喜ビ研鑽倦ズ其堂奥ニ祭シ是...