永杜鷹一のはなし②
- 2013/12/31
- 10:55

熊崎健翁先生まるで酔生夢死を愧じぬかのような私の生涯を回顧するとき、日中にしてすら嚮晦宴息を念う懈怠のうちに、而かも門を出でて自ら求めたのに等しい有功の交りを多くの先輩・同輩・後進に得ることの出来た天寵は、何にも代え難い私の仕合わせであった。前回の此の雑感に於て端なくも筆の運びから披露した永杜鷹一君なども其の一人で、必ずしも良友というのではなく、また些して深い交りがあったというのでもないが、忘れ難...
永杜鷹一のはなし①
- 2013/12/31
- 10:29

私の古い友人に永杜鷹一という人があり、この人は漢文の素養が深く一種風格のある文章を能くしたが、また警抜な語句を繰るのが巧みで、「玉の中の瑕という言葉があるが、瑕の中の玉をこそ」などと言って、よく人を煙に巻いた。玉の中に瑕を発見すると誰でも厭気がさすものであるが、瑕の中に玉を見出すことが出来れば、どんなに詰らなく思われるものの中にも美点が発見されるという譬喩なのであろう。その当の永杜君は性格に圭角が...
永杜鷹一を追え!
- 2013/12/30
- 16:26

平幡住職を通じて文嶺縁者の古老から齎された情報によって、顕彰碑の大凡は判明した訳だが、ここで気になるのは、建立者である永杜鷹一のその後である。鷹堂が顕彰碑建立時に持ち帰ったという林文嶺の遺品中には、極めて重要な情報が含まれているはずであるし、『姓名の眞理』によると、鷹堂の手になる易・相・四柱・姓名の秘伝書四巻三十二編があったといい、連山塾の入門者にのみ伝授されたとあるのだが、この林永流の秘伝書とい...
永杜鷹堂の虚像と実像
- 2013/12/30
- 10:44

『姓名の眞理』永杜鷹堂著・1955年刊林文嶺(1831~1907)の顕彰碑を平幡住職の協力で発見した際は、恥ずかしながら建立者である永杜鷹一について、何の知識も持ち合わせていなかった。碑刻されている甲戌は、素直に考えれば1934年の筈だが、文嶺の死後、顕彰のために弟子が訪れ云々ということからすると、師の死後27年も経過しているというのは、少々不自然の感を免れないので、或いは建立月の干支かとも最初の頃は考えていた。永...
林文嶺顕彰碑
- 2013/12/29
- 18:19

林文嶺の菩提寺である玉崎山東円寺渡辺観岳先生の講演録によって、林文嶺が千葉は三川の東円寺に葬られたことを知った私は、早速東円寺にコンタクトを取ることにした。電話で応対されたのは、住職を務める平幡照正師で、近年は個人情報保護の観点から埋葬者の問い合わせにも応じないように本山から指示が出ているとかで、初めはかなり渋っておられたが、林文嶺がどれくらい重要な人物であるか、現在も書物が出版されている現状など...
林文嶺について
- 2013/12/28
- 19:59

『画相眞傳』(中村文聰編著/悠久書閣・1943年刊)林文嶺(1831~1907)といえば、“画相”の元祖的存在として有名で、現在入手出来る書籍としては、『林流相法画相気色全伝』(鴨書店刊)、『林文嶺相法伝書』(雪玄堂刊)の二冊があるようだ。しかし、その実像はあまり知られておらず、『東洋占術の本』(学研刊)では、一頁を文嶺について割くも、生没年すら記載がない有様である。蒼流庵主人は、系譜上は林文嶺に連なる者である...
慈雲尊者と高貴寺
- 2013/12/27
- 20:54

慈雲尊者が晩年のおよそ30年間を過ごされたのが、大阪は河南町の高貴寺である。『十善法語』の完成を機に、再び隠棲の決意を固められた慈雲尊者は、安永5年(1776年)2月に高貴寺に入寺し、ここを正法律の本山と定めた。その後も、長栄寺や雙龍庵に時折出向され、信者の請に応えて年に二、三度は上洛されていた。文化元年(1804年)に長栄寺で発病されて、養生のため上洛して阿弥陀寺で保養されていたが、同年12月22日に遷化され、...
慈雲尊者と阿弥陀寺
- 2013/12/27
- 14:19

元阿弥陀寺跡を示す石碑(京和学園幼稚園前)長栄寺時代から雙龍庵時代にかけて、尊者の業績や高徳は広く知れ渡るようになり、京都在住の篤信の人々は、西の京の阿弥陀寺を買い求め、尊者の出向を懇請した。明和8年(1771年)、尊者54歳のとき、遂に信者の請に応じて生駒山を下り、阿弥陀寺に移られ、その後の五年間は在京の道俗に法を説かれた。安永2年(1774)11月23日から翌安永3年4月8日まで、十回にわたって行われた法話は、...
慈雲尊者と雙龍庵
- 2013/12/26
- 19:00

近鉄線額田駅ホームにある石標慈雲尊者が、41歳~54歳まで過ごした雙龍庵は、生駒山中に建てられた草庵で、宝暦8年(1758年)に建立された。私の号の一つである「蒼流庵」は、この尊者の庵の名からとったものである。尊者の畢生の大著『梵学津梁』は、この雙龍庵で執筆された。 『梵学津梁』は、本・末・通・別・略・広・雑の七部に分けて七註と名付けられ、特に第五略註は悉曇(梵字の字母のこと)のアルファベット順に編纂された...
慈雲尊者と長栄寺
- 2013/12/25
- 20:57

長栄寺山門の石標は慈雲尊者の揮毫によるもの延享元年(1744)、慈雲尊者27歳の春に移られたのが長栄寺(現東大阪市)である。尊者は41歳で雙龍庵に隠棲されるまで、ここ長栄寺で活動されたが、ちょうどこの時期から尊者の対外的な活動が華々しく展開されていく。境内にある案内板私はかつてアルボムッレ・スマナサーラ氏(1945~)によるヴィパッサナー瞑想の瞑想会で、初めて長栄寺を訪れたのだが、当時はあまり慈雲尊者の事績に...
慈雲尊者の説法霊場
- 2013/12/24
- 20:29

慈雲光尊者説法霊場(地福寺明静院)宗教の宗派対立というのは真に醜いものであるが、その根本には“我が仏尊し”という考え方がある。法華経を尊崇するものは法華経こそが釈迦の教えの最も価値あるものと思い、般若心経の信者はあの276文字に仏教の真髄があると思っているわけだ。しかし、慈雲尊者はそうではなかった。それぞれの宗派の教義を盲信することを強く批判し、あくまでも仏典の理解を通して、本来の仏教の在り方を追求し...
慈雲尊者と法楽寺
- 2013/12/23
- 06:51

紫金山法楽寺慈雲尊者は、父の遺言により13歳の時に法楽寺(大阪市東住吉区)で出家し、同寺の住職・忍網貞紀に密教とサンスクリットを学んだ。忍綱貞紀より引き継いで22歳から24歳まで住職を務めた此の法楽寺は、私の両親の実家の傍に在り、毎年正月には法楽寺に参拝していた懐かしき想い出の場所でもある。法楽寺は、ひところ、「天下の三不動」の一つに数えられている京都青連院の国宝「青不動」の原画が発見され、一躍有名にな...
慈雲尊者生誕之地
- 2013/12/22
- 18:45

慈雲尊者は、大坂中之島(現在の大阪市北区)の高松藩蔵屋敷でお生まれになった。現在、中之島のリーガロイヤルホテルの近くには、慈雲尊者生誕地を示す石碑が建っており、側面には、沢木興道禅師(1880~1965)の讃が刻まれている(堂島川をはさんだ斜め向かいには、福沢諭吉の生誕地がある)。もともとは昭和2年建立の「慈雲尊者誕生地」と刻まれた石碑であるが、この石碑は戦災を経て道路や高層ビル等の建設により失われてしま...
慈雲尊者
- 2013/12/21
- 23:15

慈雲尊者肖像今東光氏に“慈雲尊者”と題した小論がある(『易学研究』1953年5月号所収)。慈雲尊者(1718~1805年)と聞いてすぐ解る人は、仏教に詳しいか、書道に詳しいか、或いは余程教養のある人かの何れかであろう。私がここで慈雲尊者を取り上げるのは、慈雲尊者が水野南北に関わりがあるからである。実は、水野南北に居士号を授けた人こそ、誰あろう此の慈雲尊者なのだ。享和3年(1803)、相法上の師である海常律師の追善供養の...
水野南北の墓~独鈷山鏑射寺~
- 2013/12/20
- 17:29

三田の鏑射寺にある水野南北の墓とされる碑“現代の空海”として知られる中村公隆師が住職を務める兵庫県は三田の独鈷山鏑射寺にも水野南北の墓とされる石碑がある。ネットで検索してみると、水野南北の墓として大勢が参拝しているのは、この鏑射寺の墓碑なのであるが、私はこれは墓ではなく供養塔のようなものであろうと常々考えている。まず、法輪寺にあった南北先生墳は来歴がはっきりしているが、鏑射寺のものは、信頼のおける文...