初代目黒玄竜子先生
- 2014/02/28
- 18:16

若き日の初代玄竜子・目黒要太郎先生初代玄竜子・目黒要太郎先生(1873~1938)は、東京は日本橋で帝国人相学院を主催し、大正~昭和初期にかけて主だった活動をされた日本相学史上の巨星で、門下からは大熊光山先生や中村文聰先生(1906~1980)といった優れた相学者を輩出した。ネット上ではどういう訳か、初代玄竜子の活動時期を「江戸時代末期から明治時代」と記載しているものがあるけれど、とんでもない誤りであり、生没年を...
『近世易学研究』奈良場勝著
- 2014/02/27
- 18:40

『近世易学研究』(奈良場勝著・おうふう出版・2010年発行)は、これまでありそうでなかった江戸時代の易占法に書誌学的な角度から迫った労作である。長らく江戸時代の易占法について抱いていた疑問の数々に、本書ほど多くの示唆を齎して私を啓発した書物は他にない。中核を成すのは、平澤随貞と新井白蛾であり、彼らの易占法に断易と梅花心易がどのような影響を及ぼしたか、そして、彼らの易書に見られる即時占の源流を探る。随貞...
真勢易も研究していた高島嘉右衛門
- 2014/02/26
- 17:23

明治二十四年四月十日。余清晨無事。たまたま新聞及雑誌を閲するも、未だ幾くならずして意倦む。書を抛ちて起つ。此の風日清和を愛し、遊興の念発し、将に近県に赴き春光を探賞せんとす。行に臨み偶ま一筮を試む。睽上九。睽孤。見豕負塗。載鬼一車。先張之弧。後説之弧。匪寇婚媾。往遇雨則吉。 断じて曰く。睽孤。なお余の孤身独行を云う也。見豕、載鬼、張弧、説弧とは其の目見ることの無定形なるを云う。なお余が游跡の定所...
高島嘉右衛門と古易
- 2014/02/25
- 18:48

高島嘉右衛門の立筮加藤大岳先生の初期の著作では、真勢中州の易法を賛美する余り、高島嘉右衛門をかなり低く評価していた感がある。實に、我邦に於ける占術の研究と實踐は、白蛾・中州の時代に殆んど其の悉くが究め盡された觀があり、正に其の點に於ては、斯道の最高峰を實現し、高島以下は寧ろ低下して居たことを認めなければならない。(『易学病占』26頁)もっとも、これは最初期に書かれたものであり、晩年に至って同じ評価を...
浄春寺徘徊録
- 2014/02/24
- 20:57

かつて真勢流の保科嘉一郎の墓があった浄春寺は、四天王寺の北西間近の場所にあり、大阪のハカマイラーには知る人ぞ知るスポットである。京都の墓地に慣らされてしまった私のような手合いには、さして広くは感じられない墓域だが、大阪ではかなり広い方らしい。浄春寺の一番の目玉は、田能村竹田(1777~1835)だろう。竹田は南画の大家で、現在、約30点の作品が重要文化財に指定されている。江戸時代にはあまりの人気から贋作が多...
保科嘉一郎
- 2014/02/24
- 19:30

真勢中州の門人に、保科嘉一郎(1765~1819)という人が居て、『浪速人傑談』は以下のように記している。保科嘉一郎 髑髏亭と号す、浪速の人なり、温厚篤実抜群の人なり。始文学を中井履軒に学ばれしが、中年の後真勢中州先生の門人となって、専易学を研究し、又老荘の学にふかく志をよせて、遂に其の道に達せられたり。日本橋の北に住し、恒に書耕して衣食に代へ、余の書を論ずる事なく、唯易経、老子経、荘子の三経而已を終講し...
赤穂の大儒・赤松滄洲
- 2014/02/23
- 20:28

赤穂の大儒・赤松滄洲(1721~1801)は、播磨三日月に生まれ、名は鴻、字は国鸞、号は沿洲・静思翁、通称を大川良平といった。実父は舟曳通益といい、17歳の時、赤穂藩医の大川耕斎の養子となる。舟曳・大川両氏ともに播州の豪族・赤松氏より派生のため、著述の上では赤松氏を名乗った。若い頃、京都に出て香川修庵(1683~ 1755)より医学を、儒学を宇野明霞(1698~1745)・岡白駒(1692~1767)に学ぶ。延享4年(1747)赤穂藩儒...
播州赤穂の易学
- 2014/02/23
- 13:57
谷川龍山は播州の生まれであるが、播州から赤穂にかけては昔から易学が盛んだったらしく、この地域に関わりのある易儒が意外に多いのに驚かされる。蒼流庵主人が探墓に成功した易儒は現時点で87人にのぼるが(墓碑を確認した数で、実際に探墓したのは其の倍はあろうか)、その内、7人が播州赤穂に何らかの関わりを持っている。出身→赤松滄洲・岡白駒・奥田拙古・穂積以貫・三宅尚斉祖先が出身者→河野恕斎(岡白駒の子)姫路の学問...
谷川龍山
- 2014/02/22
- 20:20

真勢中州の正統後継者である谷川龍山(1774~1831)は、安永3年の生まれで、名を順・久亮、字は祐信、通称を順助、号を龍山・含章堂といい、順祐と称した。『浪速人傑談』は生地を播州東畑の人としているが、青木良仁先生が図書館で見つけて来た『播磨奇人伝』宇都宮大潔著によれば、「加東郡宿村の眼科の医師」とあり、著者の宇都宮大潔(1804~1875年・江戸時代末期から明治時代初期の土御門家の陰陽師)は、播州の生まれである...
真勢易と霊感占
- 2014/02/21
- 18:28

真勢先生顕彰会の懇親会風景(昭和30年)一番手前は若き日の紀藤元之介先生真勢易といえば、誰もが“精緻”や“理論的”といった形容を思い浮かべるけれど、本当にそうなのか。人目を引くような「平四郎の名前占」や「脇差占」などは確かに煌びやかであるけれど、有名な幾つかの占を除けば、真勢流の書に記載されている占例の大部分は、精緻でもなければ理論的でもなく、寧ろ“こじつけ”の感が強いようだ。私は易占家の多くが抱く真勢易...
真勢易は松井羅州が創った虚像か
- 2014/02/20
- 21:41
真勢中州という稀代の易占家を語る際に、避けて通れないのが、俗に“空白の十年”などと呼ばれる晩年の謎である。中州は51歳で『酬醋神明図』を発表してから64歳で没するまでの10年余りの期間、講説含め、その活動がパッタリと休止するのである。この晩年の空白期間について、中州は米相場に手を出して失敗し、表舞台から去ったのだとも言われているが、飽く迄も巷間の噂に過ぎない。加藤大岳先生は、そもそも、あれだけの占法家が老...
松井羅州
- 2014/02/20
- 18:48

『筮儀約式通解』松井羅州著真勢中州の高弟・松井羅州(1751~1822)は、宝暦元年に大阪は新町で生まれ、本姓は源、名は暉・暉星・輝星・暉辰・輝暉、字は賚黄、通称は甚五郎・七郎、号に羅州(羅洲)・読耕園・臨照堂・金瓶先生などがある。平澤随貞と松宮観山のような間柄で、弟子である羅州の方が、中州より年長(3歳違い)であり、市井の売卜者であった中州よりも羅州の方が、上の階級に属していたようだ。真勢易についての初...
『周易釈故』真勢中州講説
- 2014/02/19
- 20:41

『漢籍國字解全書』(早稲田大学出版部刊)『周易釈故』は、真勢中州の講説を門弟の松井羅州が修飾して記述したものとされており、歌丸光四郎先生は、真勢には数種の著書があるが、その代表的傑作は『周易釈故』である。これは易に関心のある人なら、一度は眼を通しておくべき書物である。と激賞している。歌丸先生の真勢易賛歌はかなり熱が入っていて、私などには付いていけない所があるけれど、本書がユニークで真勢易らしさが出...
射覆の練習は必要か
- 2014/02/18
- 21:39

射覆の名人・田畑大有先生残されている白蛾や随貞の占例には射覆が圧倒的に多く、中州に関しては実生活に関する占例も沢山残っているけれど、それらの占例も当て物の要素が強い傾向がある。ところで、歌丸光四郎先生は、若い頃に交流した易占家・田畑大有氏(1886~1968)を回想して、私は射覆のできる易者は、田畑大有が最後ではなかろうかと見ている。と言っている。この人は若い頃、上野の図書館(国会図書館)に三年間こもって...
江戸時代の易占における射覆
- 2014/02/17
- 18:39

射覆というのは、覆い隠されているものの中身を当てるもので、易占を用いた一種の透視術である。今でも易占の勉強会では象占の練習として行われることがあるし、勉強会後の宴会などで余興として行われることもあるようだ。射覆の“射”は、普通なら「シャ」と読みたい所だが、単に弓で射るのではなく、ねらって当てる場合に、特に「セキ」と読むらしく、射覆と書いて「セキフ」と読むことになっている。これを“シャフク”などと読むと...