高松貝陵
- 2014/04/30
- 18:10

高松貝陵は、序卦を用いた占法家の代名詞的存在と言っていい。というよりも、序卦占法を全面に押し出しているのが、高松貝陵くらいのものだろう。刊本のほとんどは天保から嘉永年間にかけて出ており、白蛾や随貞などよりはずっと新しい時代の占法家であるが、その事績はほとんど判っていない。近藤龍雄先生は、「惜しい哉貝陵は幕末に生れ国内騒然、其の易説は幕府に不利なるによりて其著書は焼かれ、且又忽ちにして明治維新の新政...
序卦伝を読もう
- 2014/04/29
- 21:51

公田連太郎先生(1874~1963)の『易経講話』は、経文の前に「序卦伝」から解説を始めるというユニークなスタイルを採っている。これから序卦伝の御話をする。変なところから読み始めるのであるが、これは私が昔、易を独学していた時に、序卦伝を読んで始めて易の概念を得られたのであって、今でも周易を学ぶ人は、先づこの序卦伝を一通りざっと読んで、周易の大体の輪郭を知って置く方が善いと思うて居る。さういふわけで、序卦伝...
秋田の易学
- 2014/04/28
- 18:54

俗界の人々にとって、秋田といえば、色白美人ときりたんぽくらいのイメージしか頭に浮かばないのだが、秋田は易学に関わりの深い大学者を大勢輩出した県だ。これは特に易学に限ったものではなく、漢学と言い換えても良いように思うのだけれど(易経は五経の筆頭であるから、漢学に強い場所では俄然易学も盛んになる訳だ)、東北六県の中でも秋田は、際立って優れたユニークな人材を輩出しているのである。易経および其処から派生し...
金岳陽
- 2014/04/27
- 22:01

金家累代之墓(秋田市・麟勝院)根本通明(1822~1906)は、金岳陽(1758~1813)の学統である。金岳陽は、宝暦8年に生まれ、名を秀実・秀順、字を応元・天祐、通称を宇平治、岳陽の他に、玉振・寛斎とも号した。山本北山(1752~1812)に学び、秋田藩に仕えて財用奉行などを歴任、藩校明徳館でおしえ、祭酒(学頭)となり、文化10年に56歳で世を去った。墓所は、秋田駅から西へ徒歩20分ほどの麟勝院にあるが、昭和5年に改葬され、「...
『羽嶽・根本通明先生展写真集』より
- 2014/04/26
- 17:59

昭和61年に発足した羽嶽研究会の初期の目的は、通明の生誕170年記念に、遺墨や遺品その他の資料を一堂に集めて展示会を開催することだったそうで、西仙北町中央公民館にて平成4年の4月3日から3日間開催され、肖像写真をはじめ、掛け軸や扁額、幼少時に使用した机など約70点が展示されて、観覧車は町内外の各種団体を含め700名に及んだそうである。展示会の写真集は、諸般の事情で随分発行が遅れたようで、平成9年の2月に発行された...
根本通明翁の貴様呼はり
- 2014/04/25
- 18:09

高島嘉右衛門、自ら易博士なりと称し、伏羲以来易理を究め得たもの、乃公一人であると言はぬ計りに吹聴してるが、根本通明翁には一目を置いて、時々易の講釋などを聴きに行く事がある。處が根本老人、却々調子の高い先生で、大抵の人は貴様々々と呼棄にする、ツマリ貴様と云ふ語が口癖になつてるから溜らない。横濱の大紳商、易学の大先生、呑象翁高島嘉右衛門と雖も、頭から貴様々々と扱き下されるので、殆んど閉口して、或時根本...
抜き書き『羽嶽根本通明・伝』
- 2014/04/24
- 22:12
日本人が、漢文を訓読していることを知った何如璋(清国公使)が、 「古文の本当の意義は、音読でなければ分かるものではない。 それを訓読しているから、日本人は漢文の正しい意義を誤ってしまうのだ。 音読すれば、その口調の中から本当の意義が含味出来るようになる」 と説いた。 そしてこの説に賛成した日本人学者がたくさんいた。 しかし、通明は、この説に強く反対した。 「支那(中国)は革命の度に国が変わって来た。そこ...
羽嶽根本通明・伝(田村巳代治著)
- 2014/04/23
- 23:54

秋田魁新報社から1997年に出版された田村巳代治氏の『羽嶽根本通明・伝』は、根本通明という人物を知るのに格好の本である。 戊辰戦争の際に秋田藩が孤立していく中、尊王に燃える通明の活躍が、迫力ある文体で描写されているだけでなく、高島嘉右衛門に逆ギレしたり、寸法を測りに来た仕立屋に激昂するバイオレンスなシーンも見どころの一つであろう。「根本羽嶽論」(加賀谷憲一著)が収録された『易学研究』は入手困難である為...
羽嶽根本通明先生頌徳碑
- 2014/04/22
- 20:23

愛宕公園入り口通明の生誕地である刈和野の愛宕公園には、大正4年に建立された頌徳碑がある。刈羽野駅から徒歩で5分程度の場所なのだが、2012年に私が訪れた際は、なかなか道が分からずに何度も迷い、散歩中の老婦人に道を尋ねたところ、刈和野の人間なら誰でも知っていると案内して下さった(地元では「周助さん」の愛称で親しまれているようだ)。没後百年を経た今でも郷里の人々の記憶に刻み込まれている根本通明という大儒の学...
根本通明の墓
- 2014/04/21
- 18:00

根本通明墓(秋田市・昌東院)明治39年(1906年)、通明は肝臓病を患ったが、大の医者嫌いである為、「自分はどこも悪くない」と言い張って、治療を頑なに拒んだ。そこで、医者が一計を案じて、無病であることを強調して、病院での休養という名目で丸めこんで、とうとう東大青山内科に入院させることに成功する。しかし、病状は思わしくなく、ついに10月3日に危篤となり、八十五年の生涯を閉じた。5日、浅草橋場(現在の台東区橋場...
根本通明
- 2014/04/20
- 19:20

公田先生は、秋田出身の大儒・根本通明(1822~1906)の晩年に、十年間にわたって漢学の講義を受けている。 文政5年(1822年)に出羽国刈羽野村(現秋田県大仙市刈和野)に生まれた根本周助(のち通明)は、藩校明徳館に学び、戊辰戦争の際には奥羽列藩の中で孤立して窮地に陥った藩を救って勤皇を貫き、藩最大の軍功を挙げる。上京すると、その学識の高さで名をとどろかせ、当時の斯界の大家であった安井息軒(1799~1876)や芳野...
奈良場勝先生と会食
- 2014/04/19
- 19:34

水曜日のことであるが、『近世易学研究』の著者である奈良場勝先生と、九段下にてお目にかかった。先生は、江戸時代の易占の研究において、間違いなく右に出る者の一人として居ない第一人者である。お会いするのは初めてだが、蒼流庵主人が江戸時代の易占法に対して抱いていた疑問の数々に『近世易学研究』を通じて、答えを示して下さった方である。蒼流庵随想で紹介して来た様々な記事も、この本が無かったら書けなかったものが少...
『荘子講話』推薦文より
- 2014/04/18
- 18:14

私は公田先生に相見の礼を修めたことはない。しかし私は、先生が善く書を読まれることを知っている。数年前、先生の訳による『資治通鑑』を、ただ一巻だけであるけれども、ある必要から、精細に読んだことがあった。そして全く一つの誤読をも見いださなかった。以後、私はひそかに先生に推服している。以上のようなことをいうのは、大先輩である先生に対し失礼であるとする人があるかも知れない。しかし私があえて、このことをいう...
抜き書き『禅骨の人々』
- 2014/04/17
- 23:14

公田先生は、明治七年(一八七四年)十月三日出雲市古志町に生まれられたので、今年の十月には満八十八歳になられる。この高齢の公田先生の眼は、先生より二十九歳も若い私の眼よりも、はるかに健やかである。また、その眼は幼な子の其れのように清らかで澄んでいる。そこに老人的な濁りがない。しかも、その眼光は、はなはだ強く且つ定まっている。ひそかに悚然とすることしばしばである。(4頁)~~~~~~~~~~~~~~~...
公田連太郎先生
- 2014/04/16
- 19:42

『易経講話』の著者・公田連太郎先生は、 明治7年に島根県出雲市古志町に生まれ、幼少より漢籍に親しまれて、21歳で上京し、晩年の根本通明先生(1822~1906)に十年に渡って師事された。また、同時期に山岡鉄舟の師である南隠禅師に参禅されている。『禅骨の人々』辻雙明著は、禅僧であった著者が、かつて交流した人々との想い出を抒情的な筆致で綴った回想録で、全体の三分の一ほどを公田先生のエピソードが占めている。紹介...