堀南湖~京都易儒墓参録~
- 2014/05/16
- 18:10

堀南湖墓(南禅寺帰雲院・左京区南禅寺福地町)堀南湖(1684~1753)は、貞享元年に生まれ、名は正修、字は身之、通称は一六郎・七太夫・正蔵といい、南湖・習斎と号した。堀杏庵(1585~1643)の曾孫で、堀景山(1688~1757)の従兄であり、母は木下順庵(1621~1699)の娘。元禄8年(1695)、安芸広島藩主・浅野綱長(1659~1708)に儒医として招かれ、正徳3年(1713)侍講となる。京都に住し、藩主参勤の時は江戸に従い、また広...
松永昌易~京都易儒墓参録~
- 2014/05/15
- 18:05

松永昌易墓(妙恵会総墓所・下京区堀川通松原下ル柿本町)松永昌易(1619~1680)は、 元和5年に、松永尺五(1592~1657)の長男として生まれ、名は昌易、号を寸雲・寸雲軒・春秋館・碧軒といった。京都西洞院に住み、父の春秋館を継いで講説を業とした。俳諧を能くし、詩経や礼記の註解を書いた他、易書として、『周易秘箋』『周易程朱伝義注』がある。墓所は、京都市下京区の本圀寺の旧墓地(本圀寺は1971年に山科へ移転し、現...
猪飼敬所~京都易儒墓参録~
- 2014/05/14
- 18:15

猪飼敬所墓(真如堂・左京区浄土寺真如町82)猪飼敬所(1761~1845)は、宝暦11年に京都西陣の糸商であった猪飼順彦の子として生まれ、名は彦博、幼名は安次郎、字は文卿・希文、通称は三郎右衛門といい、敬所・千一居士・洛下儒隠聱叟と号した。初めは石田梅岩(1685~1744)の心学に傾倒して、手島堵庵(1718~1786)に師事する。安永9年(1780)、宮鳳岡に入門して漢学を、翌年に薩埵蒿川に史学を学び、天明3年(1783)には儒者...
石王塞軒~京都易儒墓参録~
- 2014/05/13
- 18:56

石王塞軒墓(真如堂・左京区浄土寺真如町82)石王塞軒(1701~1780)は、元禄14年に近江国水口に生まれ、名は明誠、字は康介、通称は安兵衛、別号を黄裳、確廬といった。京都で三宅尚斎(1662~1741)に学び、久米訂斎(1699~1784)・井沢強斎(1705-1755)とともに宅門三傑と称せられた。享保(1716~36)中、伊予大洲藩主加藤氏に仕えたが、老親への孝養のため致仕して帰郷し、宝暦3年(1753)江戸に下って仙台藩主伊達宗村に...
久米訂斎~京都易儒墓参録~
- 2014/05/12
- 06:46

久米訂斎墓(立本寺・上京区一番町)久米訂斎(1699~1784)は、元禄12年に京都に生まれ、名は順利、字は断治、通称は断二郎(一説に新二郎)といい、訂斎・簡兮と号した。崎門三傑の一人・三宅尚斎の高弟にして、尚斎の娘婿である。京都で講説を業とし、程朱の性理説究明において特にすぐれる。易書に『易経本義口義』『太極図講義筆記』『太極図説講義』などがある。墓所のある上京区の立本寺には、他に荻野元凱(1737~1806)の墓...
田中履堂~京都易儒墓参録~
- 2014/05/11
- 06:35

田中履堂墓(光清寺・上京区七番町)田中履堂(1785~1830)は、天明5年に越前で生まれ、名は頤、字は大壮、通称は大蔵、号を履堂といい、修道先生と諡された。青山常喬の男で、初め青山氏であったが、のち越前出身の儒医・田中適所(1725~1801。適所は同郷の奥村良竹より吐方を学んでいる)の嗣となり、田中姓を名乗る。18歳で皆川淇園に入門し、のち京都で開塾した。伊勢津藩の講官となったが、まもなく致仕し、講説を業とした...
岡白駒~京都易儒墓参録~
- 2014/05/10
- 20:59

岡白駒墓(迎称寺・左京区浄土寺真如町)岡白駒(1692~1767)は、播磨網干の人で、名は白駒、字は千里、通称は太仲、号を龍洲といった。初め医を学び、のち儒者となって、江戸と長崎に遊学し、中年に京都に門戸を開いた。初め朱子学、のち古注により、古典の注釈を多く著し、白話小説の翻訳も多く行っている。延享(1744-48)の頃、佐賀藩の支藩である蓮池藩に儒官として仕えた。同じく蓮池藩に仕えた河野恕斎 ( 1742~1779)は、...
松本愚山~京都易儒墓参録~
- 2014/05/09
- 21:23

松本愚山墓(大興寺・左京区浄土寺真如町15)松本愚山(1755~1834)は、 宝暦5年に京都で生まれ、名は慎、字は君厚・幻憲、通称を才次郎といい、愚山と号した。室町松原下ル町・四条東洞院東に住す。皆川淇園に学び、のち大阪で教授した。詩文を能くし、易書として『周易箋註』を著している。...
皆川淇園~京都易儒墓参録~
- 2014/05/08
- 18:10

皆川弘道先生墓表(阿弥陀寺・上京区寺町今出川上ル鶴山町14)皆川淇園(1735~1807)は、江戸時代中後期の儒者であり、当時の京都を代表する大文化人でもある。享保19年に京都で生まれ、名を愿、字を伯恭、通称は文蔵、別号として有斐斎などを用い、明経先生・弘道先生と諡された。父の皆川成慶は、骨董商とも一説には東福門院御殿医ともいう。大井雪軒、三宅牧羊、伊藤錦里(1710~1772) らに学び、50歳の頃、開物学と称する独...
伊藤仁斎~京都易儒墓参録~
- 2014/05/07
- 23:17

伊藤仁斎墓所(京都・二尊院)伊藤仁斎(1627~1705)は、寛永4年に京都で生まれ、名を維禎、幼名を源吉・源七郎、字を源佐・源助、通称を鶴屋七右衛門、仁斎の他に敬斎・裳隠とも号し、諡号は古学先生。出身は商家であるが、承応3年(1654)に病のため家業を弟に譲り、学問に専念した。寛文2年(1662)京都堀川の自宅で古義堂を開塾し、多くの門弟を教えた。仁斎の提唱した古義学は、当時の主流である朱子学的経典解釈を廃して、...
伊藤東涯~京都易儒墓参録~
- 2014/05/06
- 23:50

伊藤東涯墓所(京都・二尊院)伊藤東涯(1670~1736)は、古義学を提唱した伊藤仁斎(1627~1705)の長男で、二代目として古義堂を継承した儒者である。寛文10年に生まれ、名は長胤、字は原蔵・源蔵・元蔵、東涯の他に慥々齋とも号し、諡は紹述先生。母は尾形氏で、尾形光琳・乾山の従姉に当たる。生涯仕官せず、父である仁斎の学問を祖述することに努め、仁斎の著述のほとんどは東涯によって刊行されたもの。古義学には、あまり易...
『刀巴心青』八木喜三朗著を購入
- 2014/05/05
- 10:13

先月、東洋書院から復刊された八木先生の『刀巴心青』をようやく買って来た。正直な所、私は相法は専ら不得手であり、そもそもの関心の対象も病相望診に限られているから、色情人相学の類にはまるで興味が無いのだけれど、以前、八木先生の『刀巴心青』は、二代目玄龍子・目黒八朗先生の本の剽窃であるという話を聞いたので、それを確認したかったのである。結論から言って、その話はガセネタだった。そもそも、こんな狭い世界でタ...
安岡正篤先生
- 2014/05/04
- 13:50

安岡家之墓高松貝陵の墓所がある染井霊園には、陽明学の泰斗・安岡正篤先生(1898~1983)の墓もある。政財界に多くの信奉者が居たため、今日でも大変人気があって、著書も随分売れているようだが、義理易の立場であるので、占筮家には縁が薄いかもしれない。易関連の著述としては、『易学入門』という本が有名だが、これはやや衒学的傾向の強い著述で、凡そ初学者が“入門”の文字に釣られて読むには適切でないように思う。染井霊園...
陰陽師の里
- 2014/05/03
- 17:24

兵庫県の佐用郡佐用町には、平安期を代表する陰陽師である安倍晴明と芦屋道満の墓と伝えられる宝篋印塔がある。もっとも、宝篋印塔は鎌倉以降に作られるものなので、これらも後世の人々が建てた供養塔の一つであろう。中国自動車道佐用ICを降りて、田舎道をクネクネ目的地へ。まずは晴明塚の方から晴明の顔ハメ看板で、しばし陰陽師気分を味わう。「オンキリキリナンタラカンタラ・・・」晴明の宝篋印塔。異様な静寂に包まれてそれ...
相馬海山と成道庵
- 2014/05/02
- 18:31

成道庵(兵庫県志方町原)高松流の易占家は、昔は京都に多かったというが、今では残っていないだろうと思う。比較的新しいところでは、東海易学界の重鎮であった天明堂主人・森喬先生が貝陵易を坂野月珊(1862~1939)より伝授されており、坂野月珊の師は相馬海山で、海山は高松貝陵の直弟子であったから、森先生は貝陵の曾孫弟子ということになる。東播磨の高御位山の北東に位置する志方町の集落には、相馬海山から坂野月珊が教え...