山片蟠桃~懐徳堂史跡あれこれ~
- 2014/05/31
- 19:03

山片蟠桃墓(善導寺・大阪市北区与力町)“宗文”とあるのが蟠桃の戒名である。山片蟠桃(1748~1821)は、寛延元年(1748)に、播磨国印南郡神爪村(現兵庫県高砂市)に生まれ、本姓は長谷川、名は有躬・芳秀、字は子厚・子蘭、通称は升屋小右衛門といった。宝暦10年(1760)、大阪の升屋別家(別家とは使用人がのれんわけを許され独立した家のこと)の伯父・久兵衛の養子となり、升屋本家に奉公を始めた。本家の当主は、蟠桃を懐徳...
富永仲基~懐徳堂史跡あれこれ~
- 2014/05/30
- 18:16

富永仲基招魂碣(西照寺・大阪市天王寺区下寺町2丁目)戦前を代表する東洋学者であった内藤湖南(1866~1934)に「大阪の町人學者富永仲基」と題した講演録(ちくま学芸文庫『先哲の学問 』収載)がある。「この富永仲基といふ人は、私のひどく崇拝して居る一人です。(中略)眞に大阪で生まれて、而も大阪の町人の家に生まれて、さうして日本で第一流の天才と云つてよい人は富永仲基であると思ひます。(中略)仁齋でも徂徠でも皆...
五井蘭洲~懐徳堂史跡あれこれ~
- 2014/05/29
- 18:18

五井蘭洲墓(実相寺・大阪市天王寺区上本町)二代目学主中井甃庵(1693~1758)とともに、初期懐徳堂を支えた五井蘭洲(1697~1762)は、元禄10年に朱子学者五井持軒(1641~1721)の次男として大阪で生まれ、名は純禎、字は子祥、通称は藤九郎といい、蘭洲・冽庵・梅塢と号した。貧窮のため尼崎、信濃などに流寓し、正徳2年(1712)帰阪。中井甃庵 と親交があり、享保11年(1726)に懐徳堂の助教に招かれる。翌年江戸に赴き、享保16...
神光寺~懐徳堂史跡あれこれ~
- 2014/05/28
- 17:22

神光寺門前の石標(八尾市服部川)八尾の服部川にある神光寺には、懐徳堂の初代学主三宅石庵(1665~1730)や石庵の次男で三代学主の三宅春楼(1712~1782)、懐徳堂を創立した五同志の内、長崎黙淵(生没年未詳)と中村良斎(1674~1732)、平野・含翠堂の創設に尽力した土橋友直(1685~1730)、井上赤水の墓所がある。含翠堂は、大坂南部の平野郷の有力者たちによって、享保2年(1717)に創設された郷学(ごうがく)の一つで、...
中井一族墓所~懐徳堂史跡あれこれ~
- 2014/05/27
- 18:26

誓願寺門前の石標(大阪市中央区上本町西4丁)ハカマイルの醍醐味にも色々あって、墓碑のひび割れ具合、苔や地衣類の生え方などに恰も盆栽の如き小宇宙を感じるのも中々乙なものだが、とりわけ儒者のハカマイルにおいては、たとえ易経に深い関わりを持たない先学であっても、墓碑銘を鑑賞する楽しみがある場合も多い。中井家といえば、代々懐徳堂の学主を務めた儒の名家であり、大阪の誓願寺(井原西鶴の墓があることで有名)には...
懐徳堂旧址碑~懐徳堂史跡あれこれ~
- 2014/05/26
- 18:34

懐徳堂旧址碑(日本生命保険ビル南壁面・大阪市中央区今橋)懐徳堂は、江戸時代後期に大坂の商人たちが設立した学問所で、富永仲基(1715~1746)や山片蟠桃(1748~1821)といった際立って独創的な学者を多数輩出した。すでに、懐徳堂ゆかりの学者として、天文学の麻田剛立(1734~1799)や真勢中州門の保科嘉一郎(1765~1819)といった人を蒼流庵随想ではご紹介して来た。懐徳堂は、享保9年(1724)、のちに「懐徳堂五同志」と...
蒔田雁門~大阪易儒墓参録~
- 2014/05/25
- 12:46

蒔田雁門墓(萩の寺・豊中市南桜塚)蒔田雁門(??~1850)は、名は貞・忠貞、字は元茂、号を雁門・鳳斎・高向山人といった。越前福井の人で、坂井郡高柳村代官を務め、福井藩に仕え、のち大阪で私塾を開く。晩年は福井に戻り、韻学・経学を教授した。音律にも詳しく、京都の光崎検校と親交があった。易書に『易説』『周易通』がある。墓所がある東光院萩の寺は、行基開創による曹洞宗別格地寺院で、境内に萩が多いことから、通称「...
渋井太室~大阪易儒墓参録~
- 2014/05/24
- 11:24

渋井太室墓(玄徳禅寺・茨木市南春日丘)渋井太室(1720~1788)は、享保5年に下総佐倉に生まれ、名は孝徳、字は子章、通称は平左衛門といい、太室と号した。父の渋井重之は林大学頭信篤(1644~1732)に、兄の長賢は足利侯に仕える。14歳で江戸に出て、林家に入門し、塾長であった井上蘭台(1705~1761)に師事。24歳で佐倉藩主堀田正亮(1712~1761)に仕えて藩政を助け、滝鶴台(1709~1773)・秋山玉山(1702~1764)・細井平...
平賀中南~大阪易儒墓参録~
- 2014/05/23
- 18:06

平賀中南墓(統国寺・大阪市天王寺区茶臼山町)平賀中南(1722~1793)は、享保7年に木原九郎左衛門の九男として安芸に生まれ、名は叔明・晋民、字は士亮・子亮・房父、通称は惣右衛門・図書、号は中南・果亭といい、好古先生と諡された。土生八兵衛の養子となるも、養父没後、養子に家を譲り、生家の本姓である平賀を称した。宝暦12年(1762)、肥前蓮池の大潮元皓(1676~1768)に徂徠学を学び、さらに長崎に遊学し、唐音を修め...
奥田尚斎~大阪易儒墓参録~
- 2014/05/22
- 18:35

奥田尚斎墓(一心寺・大阪市天王寺区逢阪)奥田尚斎(1729~1807)は、享保14年に姫路に生まれ、名は元継、字は志季といい、尚斎・松斎・拙古・仙楼と号した。初め那波氏で、のち妻の奥田姓を名乗る。兄の那波魯堂(1727~1789)とともに京都で岡白駒(1692~1767)に学び、のち大阪に家塾を開いた。特に春秋左氏伝に精通し、『左占指象』などの著書がある。ナウ過ぎる一心寺の仁王さん奥田尚斎の墓所がある天王寺区の一心寺は、天...
河野恕斎~大阪易儒墓参録~
- 2014/05/21
- 17:08

河野恕斎墓(光明寺・天王寺区下寺町1丁目3−73)河野恕斎(1743~1779)は、寛保3年に岡白駒(1692~1767)の長男として生まれ、名は子龍、字は伯潜、通称は忠右衛門といい、恕斎・鶴皐・南浜・鹿門・南浜漁人と号した。岡氏は旧姓が河野であったので、白駒は恕斎をその旧姓に復させた。早熟で、四、五歳で読み書きを覚え、十歳で詩文を作り神童と称された。父と同じく古注学からスタートするが、後に朱子学に転向する。博学で、経...
木村蒹葭堂~大阪易儒墓参録~
- 2014/05/20
- 18:11

木村蒹葭堂墓(大応寺・天王寺区餌差町3-15)木村蒹葭堂(1736~1802)は、元文元年に大坂北堀江瓶橋北詰の造り酒屋と仕舞多屋(しもたや、家賃と酒株の貸付)を兼ねる商家の長男として生まれ、名は初め鵠、のち孔恭、字は初め千里、のち世肅、通称は吉右衛門・多吉郎・太吉といい、巽斎・遜斎・蒹葭堂と号した。蒹葭とは芦のことであり、邸内の井戸より出た古芦根にちなんで「蒹葭堂」と称して室号としたもの。本草学を津島桂庵(...
佐久間象山~京都易儒墓参録~
- 2014/05/19
- 18:22

佐久間象山遭難之碑(京都市中京区木屋町御池上ル)佐久間象山(1811~1864)は、文化8年に、信濃松代藩士・佐久間一学国善の長男として生まれ、名は国忠・啓・大星、字は子廸・子明、通称は啓之助・修理といい、象山と号した。妻・順子は勝海舟(1823~1899)の妹である。“象山”の号の読みについて、「しょうざん」と「ぞうざん」の二つの説があるが、高橋宏氏の「佐久間象山雅号呼称の決め手」(信州大学教養部紀要29収載)によ...
三輪執斎~京都易儒墓参録~
- 2014/05/18
- 10:10

三輪執斎墓(両足院/京都市東山区)三輪執斎(1669~1744)は、寛文9年に医師・沢村自三の次男として京都に生まれ、名は希賢、通称は善蔵といい、執斎・神山子・躬耕廬・光斎・弄月・明倫堂と号した。早くに両親と死別し、父の従弟で白木屋(江戸三大呉服店の一つで、かつ、日本の百貨店の先駆的存在の一つ。京都の材木商からスタートした)創業者・初代大村彦太郎(1636~1689)に引き取られ、真野氏の養子となるが、のち本姓の三...
春日潜庵~京都易儒墓参録~
- 2014/05/17
- 12:46

春日潜庵墓(法蔵寺・右京区鳴滝泉谷町19)春日潜庵(1811~1878)は、文化8年に筑前守春日仲恭の子として京都に生まれ、名は仲好・仲襄、字は子賛、通称は直之助といい、潜庵と号した。父と同じく久我家諸大夫となり、通明・建通父子に仕えて讃岐守に任ぜられた。五十君南山、鈴木遺音(1783~1846)、富松万山に師事し、のち池田草庵(1813~1878)と親交を持ち、陽明学を修めた。安岡正篤先生(1898~1983)は、影響を受けた日...