東条琴台~東京易儒墓参録~
- 2014/06/30
- 18:20

東條氏累世之墓(向島蓮花寺・墨田区東向島3-23-17)東条琴台 (1795~1878)は、寛政7年に町医東条享哲の三男として芝宇田川町(東京都港区)で生まれ、名は信耕・耕、字は子蔵、通称は文左衛門・源右衛門といい、琴台・無得志斎・無得斎・呑海堂・掃葉山房と号した。兄の花笠文京(1785~1860)は、四世鶴屋南北(1755~1829)に師事し、戯作者として有名である。幼時より伊東藍田(1734~1809)・尾藤二洲(1745~1814)・山本北山...
朝川善庵~東京易儒墓参録~
- 2014/06/29
- 12:32

朝川善庵墓(常泉寺・墨田区向島3-12-15)朝川善庵(1781~1849)は、天明元年に片山兼山(1730~1782)の三男として生まれ、名は鼎、字は五鼎といい、善庵・学古塾と号した。兼山が中年にして没し、母が再婚した医師・朝川黙翁(?~1814)に養われる。初め養父に就き、12歳で山本北山(1752~1812)の奚疑塾に入門。文化11年(1814)に養父の死の床に呼ばれ、自分が片山兼山の実子であると明かされ、本姓に復するよう遺言されたが...
山中天水~東京易儒墓参録~
- 2014/06/28
- 17:26

山中天水墓(行安寺・台東区松が谷1丁目9−14)山中天水(1758~1790)は、宝暦8年に伊勢の農家に生まれ、名は久宣・恕之、字は宣卿、通称は猶平といい、天水・鈴山・晴霞亭と号した。初め京都に遊学し、次いで江戸に出て山本北山(1752~1812)の門に入り、古文辞学派の修辞を排撃した。25歳で日本橋に私塾晴霞亭を開いた。易書には、『周易考証』『周易発薀』がある。墓所は浅草の行安寺にあるが、関東大震災で倒壊し、原型を留め...
高岡養拙~東京易儒墓参録~
- 2014/06/27
- 18:06

高岡養拙墓(泰寿院・台東区下谷2丁目11−12)高岡養拙(1753~1824)は、宝暦3年に江戸で生まれ、名は秀成、字は実甫、通称は閑八といい、養拙・酔月老人と号した。家は代々幕府の水引御用達をつとめ、幼少のころから学問を好んで、長じては塾を開いて子弟を教育した。易書には、『易文断釈』『周易約解』『読易余論』がある。...
八田華陽~東京易儒墓参録~
- 2014/06/26
- 18:20

八田華陽墓(唯念寺・台東区元浅草2丁目11−3)八田華陽(1762~1817)は、宝暦12年に三河(愛知県)額田郡法性寺村で生まれ、名は繇、字は靖民、通称は大二郎・泰次郎といい、華陽と号した。江戸に出て井上金峨(1732~1784)に学び、江戸で子弟に教授した。18年ほど浅草寺域に住したが、世事に疎かったという。易書には『周易説統』がある。墓碑は、浅草の唯念寺に現存するが、同寺の墓地ではなく、中庭の隅にこの墓碑ひとつだけ...
亀田綾瀬~東京易儒墓参録~
- 2014/06/25
- 23:42

亀田綾瀬墓(称福寺・台東区今戸2丁目5−4)亀田綾瀬(1778~1853)は、安永7年に亀田鵬斎(1752~1826)の一子として江戸に生まれ、名は長梓、字は木主、通称は三蔵といい、綾瀬・学経堂・仏樹斎と号した。家学を受け、15歳頃から父鵬斎に代わって講義を行ったという。文政初年(1818)、下総関宿藩の儒臣となり、藩校教倫館学範を作った。また、羽後秋田新田藩主佐竹義純(1802~1856)に招聘された。易書には、『学易漫録』があ...
中村蘭林~東京易儒墓参録~
- 2014/06/24
- 18:38

中村蘭林墓(玉林寺・谷中1-7-15)中村蘭林(1697~1761)は、元禄10年に幕府医官中村玄悦の子として江戸で生まれ、本姓は藤原、名は明遠、字は子晦、通称は深蔵・玄春といい、蘭林・盈進斎と号した。享保13年(1728)、家督を相続し、小普請となる。延享2年(1745)に奥医となり、同4年、奥儒者に転じて将軍徳川家重(1712~1761)に近侍した。宝暦7年(1757)、致仕。室鳩巣(1658~1734)に師事して朱子学を学んだが、のちに考証...
大田錦城~東京易儒墓参録~
- 2014/06/23
- 18:03

大田錦城墓(一乗寺・台東区谷中1丁目6−1)大田錦城(1765~1825)は、明和2年に加賀大聖寺で生まれ、名は元貞、字は公幹、通称は才佐といい、錦城・春草堂・多稼軒と号した。父の大田玄覚(1715~1778)が加賀大聖寺藩医であった為、はじめ錦城も医術を修め、のち京都に上がって皆川淇園(1735~1807)に師事するが意に満たず、天明4年(1784)、江戸に下って山本北山(1752~1812)の奚疑塾に入門するも、北山にも満足出来なかっ...
太宰春台~東京易儒墓参録~
- 2014/06/22
- 11:03

太宰春台墓(天眼寺・台東区谷中1-2-14)太宰春台(1680~1747)は、延宝8年に信濃国飯田城下で生まれ、名は純、字は徳夫、通称は弥右衛門といい、春台・紫芝園と号した。飯田藩士だった父が浪人したため江戸に出、元禄7年(1694)、但馬出石藩に仕え小姓頭となったが、同13年、藩主の許しなく退仕したため、十年間の他家への出仕禁止の処分を受ける。以降、京阪を放浪しながら苦学し、京都では伊藤仁斎(1627~1705)の講義を聴く...
佐藤一斎~東京易儒墓参録~
- 2014/06/21
- 15:59

佐藤家墓所(中央は一斎の三男佐藤立軒の墓碑・谷中天王寺墓地)佐藤一斎(1772~1859)は、安永元年(1772)に美濃岩村藩家老・佐藤信由の次男として、江戸浜町(中央区日本橋浜町)の藩邸下屋敷内で生まれ、名は坦、字は大道、通称は幾久蔵・捨蔵といい、一斎・愛日楼・老吾軒と号した。寛政2年(1790)、岩村藩主松平乗保(1748~1826)の近侍の列に加わり、12、3歳の頃、井上四明(1730~1819)の門に入った。長じて上方に遊学...
大橋訥庵~東京易儒墓参録~
- 2014/06/20
- 18:04

大橋訥庵墓(谷中天王寺墓地)大橋訥庵(1816~1862)は、文化13年に兵学者清水赤城(1766~1848)の三男として江戸飯田町に生まれ、名は正順、字は周道、通称は順蔵といい、訥庵・曲洲・承天・屠竜居士・順周と号した。文政12年(1829)、信濃飯山藩士の酒井義重の養子となる。天保6年(1835)、佐藤一斎(1772~1859)に入門。故あって養家を離れ、天保12年(1841)に江戸の豪商大橋淡雅(1788~1853)の婿養子となって大橋姓を...
芳野復堂~東京易儒墓参録~
- 2014/06/19
- 18:29

芳野復堂墓(谷中天王寺墓地)芳野復堂(1830~1845)は、天保元年に芳野金陵(1803~1878)の長男として江戸に生まれ、名は毅、字は伯任、通称は純蔵といい、復堂と号した。幼児より両親に学問を受け、次いで亀田綾瀬(1778~1853)に学び、易を好んだが病を得て16歳で夭折した。芳野金陵墓(同墓地)同墓所には、復堂の父・芳野金陵(1803~1878)の墓碑も在る。芳野金陵は、享保2年に下総に生まれ、名は成育、字は叔果、通称は...
鷹堂忌
- 2014/06/18
- 13:16

永杜鷹一先生(昭和12~13年頃、芝区三田の自宅にて。田村浩一氏提供)本日、6月18日は、鷹堂永杜鷹一先生(1898~1946)の命日である。永杜先生については、昨年末に林文嶺(1831~1907)の顕彰碑を紹介した際に、続けて記事にしたから、ご記憶の方もおられると思う。永杜先生は、明治31年に岡山に生まれ、もと中島姓だったが、幼少の頃、田村家の養子となった。新聞記者を経て、熊崎健翁先生(1881~1961)率いる五聖閣の講師と...
井上四明~東京易儒墓参録~
- 2014/06/17
- 18:44

井上四明墓(谷中霊園・甲10号2側)井上四明(1730~1819)は、享保15年に生まれ、名は潜、字は仲竜、通称は仲といい、四明・佩弦園と号した。戸口孝広の男であるが、6歳で孤児となり、義理の叔父尾崎孤雲に養われた。越後高田藩に仕えたが辞し、江戸で井上蘭台(1705~1761)に学んで、その晩年に養子となり、跡を継いで岡山藩儒となった。明和元年(1764)、備前牛窓で朝鮮通信使と詩を応酬唱和して詩名を高め、享和2年(1802)に...
井上蘭台~東京易儒墓参録~
- 2014/06/16
- 18:02

井上蘭台墓(谷中霊園・甲10号2側)井上蘭台(1705~1761)は、宝永2年に、六代将軍徳川家宣(1662~1712)の侍医井上玄存の三男として生まれ、名は通煕、字は叔・子叔、通称は嘉膳といい、璠菴・蘭台・玩世教主と号した。享保10年(1725)、天野曾原(1678~1748)に入門、更に同12年には昌平黌に入って林鳳岡(1645~1732)の門弟となり、同14年に林家員長となった。元文5年(1740)、岡山藩儒となったが、岡山へは一度下ったのみ...