森東郭~東京易儒墓参録~
- 2014/07/15
- 18:01

森東郭墓(長源寺・新宿区横寺町20)森東郭(1729~1791)は、享保14年に上総で生まれ、名は銕、字は大年、通称は彦右衛門といい、東郭と号した。江戸本石町三丁目に住す。宋学を修め、徂徠学を排撃した。日向延岡藩主内藤政陽(1739~1781)に招かれ、江戸邸でしばしば経義を講じた。易書に『易道撥乱辨』『周易時中解』がある。...
山口菅山~東京易儒墓参録~
- 2014/07/14
- 18:53

山口菅山墓(済松寺・新宿区榎町77-10)山口菅山(1772~1854)は、若狭小浜藩儒山口風簷(1741~1806)の長男として安永元年に生まれ、名は重昭・重明、通称は定一郎・貞一郎といい、菅山・近斎と号した。崎門学派の儒者であった父より家学を受け、西依成斎(1702~1797)・西依墨山(1726~1800)・叔父の岡畏斎に従学。江戸藩邸学問所教授を務めた。藩主酒井忠進(1770~1828)の老中職を扶け、ペリー来航の際、鎖港攘夷論を唱...
豊島豊洲~東京易儒墓参録~
- 2014/07/13
- 10:03

豊島豊洲墓(幸國寺・新宿区原町2丁目20)豊島豊洲(1737~1814)は、元文2年に生まれ、本姓は中岡、修姓は豊、名は幹、字は子卿、通称は勘七郎・終吉(修吉・周吉)といい、豊洲・考亭・由己・由己亭と号した。幕府書物奉行中岡半九郎芳範の弟で、兄芳範の嗣となるが、明和4年(1767)罪を得て改易、以後、豊島氏を称す。寛政3年(1791)赦免される。初め宇佐美灊水(1710~1776)に徂徠学を学び、のち沢田東江(1732~1796)に師...
大塚先儒墓所~東京易儒墓参録~
- 2014/07/12
- 10:10

尾藤二洲(1745~1814)や室鳩巣(1658~1734)らの墓所がある大塚先儒墓所は、豊島岡墓地の北東側に隣接し、丸ノ内線「新大塚」駅より徒歩約7分ほどの処に在る。もともとは、徳川秀忠(1579~1632)と徳川頼房(1603~1661)の儒師であった人見ト幽軒(1599~1670)の邸宅があった場所で、寛文10年(1670)に道生が没した際、遺体を邸宅内に葬ったのが始まりとされている。大正10年には国の史跡に指定されており、毎年10月に斯文...
室鳩巣~東京易儒墓参録~
- 2014/07/11
- 18:31

室鳩巣墓(大塚先儒墓所・文京区大塚5丁目23)室鳩巣(1658~1734)は、元治元年に医師室玄樸(1616~1684)の子として武蔵国谷中村(現・東京都台東区谷中)で生まれ、名は直清、字は師礼・汝玉、通称は新助といい、鳩巣・滄浪・静俟斎・駿台と号した。寛文12年(1672)、加賀金沢藩主前田綱紀(1643~1724)に仕え、木下順庵(1621~1699)に入門。正徳元年(1711)、同じ順庵門下である新井白石(1657~1725)の推挙により幕府...
尾藤二洲~東京易儒墓参録~
- 2014/07/10
- 18:56

尾藤二洲墓(大塚先儒墓所・文京区大塚5丁目23)頼山陽(1780~1832)の叔父にあたり、柴野栗山(1736~1807)・古賀精里(1750~1817)とともに「寛政の三博士」に数えられる尾藤二洲(1745~1814)は、延享2年に伊予国川之江(現愛媛県四国中央市)で生まれ、名は孝肇、字は志尹、通称は良佐・良助といい、二洲・約山・静寄軒・流水斎と号した。代々回船業を営む家に生まれたが、幼時に船上で傷を負った爲に生涯脚が不自由となり...
戸崎淡園~東京易儒墓参録~
- 2014/07/09
- 17:40

戸崎淡園墓(東福寺・豊島区南大塚1丁目26)戸崎淡園(1724~1806)は、常陸(茨城県)松川の人で、名は哲・允明、字は子明・哲夫・希哲、通称は五郎太夫・重太夫・十大夫といい、淡園・淡淵・降雪館・浄巌・浄厳と号した。家は水戸藩の支藩守山藩に仕えており、淡園も寛保元年(1741)に守山藩御徒御番方として召し抱えられる。藩儒平野金華(1688~1732)に学び、藩校養老館教授・御用人役・世子傅役・家老を歴任し、享和元年(180...
昌谷精渓~東京易儒墓参録~
- 2014/07/08
- 18:21

昌谷精渓墓(天現寺・港区南麻布4-2-35)昌谷精渓(1792~1858)は、寛政4年に備中川上郡九名村(現在の井原市美星町)の庄屋の家系に生まれ、本姓は原田、名は碩、字は子儼、通称は五郎左衛・五郎といい、精渓・莫知其斎・無二三道人・寄々園主人・望岳楼と号した。はじめ郷儒の伊達北山に学び、文化5年(1808)に筑前の亀井塾に入門、亀井南冥(1734~1814)・亀井昭陽(1773~1836)父子に就いて蘐園古文辞学を修めた。文化14年...
堤它山~東京易儒墓参録~
- 2014/07/07
- 17:47

堤它山墓(立行寺・港区白金2丁目2−6)堤它山(1783~1849)は、天明3年に越前で生まれ、名は公愷、字は公甫、通称は鴻之佐・鴻佐といい、它山・稚松亭と号した。はじめ越前大野藩に仕えるが、江戸に出て大田錦城(1765~1825)の門に入り、佐藤一斎(1772~1859)にも師事した。若松町に住し、文政12年(1829)播磨姫路藩に仕え、江戸藩邸の学問所で教授し、天保4年(1833)からは姫路の藩校好古堂の支校仁寿山黌(のち好古堂に合...
片山兼山~東京易儒墓参録~
- 2014/07/06
- 13:35

片山兼山墓(明福寺・港区三田4丁目4-14)片山兼山(1730~1782)は、享保15年に上野国の農家に生まれ、名は世璠、字は叔瑟、通称は東造・冬造・藤蔵といい、兼山と号した。江戸に出て、徂徠学派の鵜殿士寧(1710~1774)・服部南郭(1683~1759)・秋山玉山(1702~1764)らに学ぶ。熊本藩儒・松江藩儒を経て、江戸で折衷学を唱えた。一時、徂徠の高弟・宇佐美灊水(1710~1776)に見込まれて養子となったが、のち徂徠学に疑問を...
土肥鹿鳴~東京易儒墓参録~
- 2014/07/05
- 13:21

土肥鹿鳴墓(金地禅院・港区芝公園3丁目5−4)土肥鹿鳴(1744~1816)は、延享元年に因幡で生まれ、名は貫雅、通称は周太郎・秀太郎といい、鹿鳴と号した。浪人して江戸に住し、易説を唱え、一説に、のち鳥取藩儒となったという。著書は大部分が易書で、『易会要目略図解』『易学示蒙』『易学手引草』『易学要領』『易卦名字彙』『易経韻字句読考』『易経俚解』『易象発揮』『易象辦疑』『易翼俚解』『易話』『左易便覧』『左国易解...
井上金峨~東京易儒墓参録~
- 2014/07/04
- 17:55

井上金峨墓(青松寺・港区愛宕2−4−7)井上金峨(1732~1784)は、享保17年に江戸の笠間藩邸で生まれ、名は立元、字は純卿、通称は文平といい、金峨・考槃翁・柳塘閑人と号した。初め、伊藤仁斎(1627~1705)の門人であった川口熊峰に、ついで林家門下の井上蘭台(1705~1761)に学ぶ。折衷学を大成させたことで知られ、徂徠学を痛烈に批判した。宝暦9年(1759)、笠間藩医官の父観斎の死を契機に藩を離れ、江戸駒込に住んで日毎に賃...
市川鶴鳴~東京易儒墓参録~
- 2014/07/03
- 18:21

市川鶴鳴墓(光明寺・港区虎ノ門3-25-1)市川鶴鳴(1740~1795)は、元文5年に上野高崎藩士の子に生まれ、名は匡・匡麻呂、字は子人、通称は多門・藤兵衛といい、鶴鳴と号した。大内熊耳(1697~1776)に学び、高崎藩に右筆(武家の秘書役を行う文官のこと。文章の代筆が本来の職務であったが、時代が進むにつれて公文書や記録の作成などを行い、事務官僚としての役目を担うようになった)として仕え、のち京都に遊学。信濃飯田侯...
池田定常~東京易儒墓参録~
- 2014/07/02
- 18:11

池田定常墓(弘福寺・墨田区向島5丁目3−2)池田定常(1767~1833)は、明和4年に旗本・池田政勝(1709~1782)の次男として生まれ、幼名は鉄之丞・恒次郎といい、松平冠山とも呼ばれる。因幡国鳥取藩の支藩・若桜藩の第五代藩主である。先代の藩主・池田定得(1754~1773)が、安永2年に実子のないまま病死した為、遺言によって政勝の次男である定常(冠山)が継ぐことになった。若桜藩は小藩ではあったが、定常は謹厳実直と其の聡...
井田亀学~東京易儒墓参録~
- 2014/07/01
- 18:10

井田亀学(回向院・墨田区両国2丁目8−10)井田亀学(1756~1802)は、宝暦3年に生まれ、名は長秀、通称は要人といい、亀学・潜竜堂と号した。亀学の詳細な経歴は不明であるが、備中松山藩士で、天明8年(1788)頃、京都に住したという。易書には『易学卦象自在』『易学射考指南』『易学通解』『易学余考』『歳卦断』『掌中疑卜辦』があり、『相学一覧』『相学辦蒙』といった相学書を著わしているのも興味深い。私がこれまで調べた...