佐藤麟趾~仙台易儒墓参録~
- 2014/07/31
- 18:21

佐藤麟趾墓(称念寺・仙台市青葉区新坂町10−3)佐藤麟趾(1763~1834)は、宝暦13年に生まれ、名は成知、字は子円、通称は兵助といい、麟趾・北山隠士と号した。生家松本氏から仙台藩儒佐藤氏の養子となる。京都へ出て、石王塞軒(1701~1780)の門人の山田静斎(??~1794)に学ぶ。寛政(1789~1801)頃、病を得て鈴木成章を養嗣子とし隠居、北山隠士と号し、周易・天文・地理を究めた。易書に『易冒解』『三易通考』『周易口義』...
伊東奚疑~仙台易儒墓参録~
- 2014/07/30
- 17:46

伊東奚疑墓(日浄寺・仙台市青葉区堤町2丁目2−1)伊東奚疑(1795~1859)は陸前の人で、名は祐道、字は子成、通称は太輔といい、奚疑・茹堂・一枝と号した。仙台藩に仕え、郡奉行を務め、殊に易学に通じた。易書に『卦義』『大易十翼微臭』がある。伊東奚疑墓表(明治34年建立)...
田辺楽斎~仙台易儒墓参録~
- 2014/07/29
- 18:33

田辺楽斎墓(保寿寺・仙台市若林区連坊小路108)田辺楽斎(1754~1823)は、宝暦4年に仙台藩士香曾我部氏の臣野中匡広の男として仙台で生まれ、名は匡勅、字は子順、通称は三郎助といい、中洲・楽斎と号した。大森清好に句読を受け、のち田辺晋斎(1692~1773)とその子損斎(1721~1783)に師事した。14歳で京都に遊学、久米訂斎(1699~1784)・宇井黙斎(1725~1782)に就学して経史を修め、さらに江戸で渋井太室(1720~1788)...
高成田琴台~仙台易儒墓参録~
- 2014/07/28
- 18:04

高成田琴台墓(阿弥陀寺・仙台市若林区新寺3-5-3)高成田琴台(1747~1813)は、延享4年に生まれ、名は頼亮、字は君明、通称は甚十郎といい、琴台・逋僊と号した。仙台藩士で、富田王屋(1728~1776)に経学を、目黒資安に剣法を学ぶ。寛政2年(1790)、『伊達系譜』『世臣家譜』の編纂に参加。右筆を勤めた後、同6年より江戸で儒役・小納戸役を歴任し、文化5年(1808)に致仕した。易象・文章に長じ、王屋門の四傑の一人に数えら...
桜田虎門~仙台易儒墓参録~
- 2014/07/27
- 10:25

桜田虎門墓(阿弥陀寺・仙台市若林区新寺3-5-3)桜田虎門(1774~1839)は、安永3年に仙台藩士桜田景明の男として仙台で生まれ、名は質・景質、字は仲文、通称は周輔といい、虎門・鼓缶子・欽斎と号した。はじめ仙台藩儒の志村東嶼(1752~1802)に学び、寛政3年(1791)に江戸へ出て、同8年、服部栗斎(1736~1800)に入門し、栗斎の麹渓書院で教授した。文化4年(1807)、仙台藩儒となり、江戸藩邸内に順造館を創立、さらに国元...
熊沢蕃山~茨城易儒墓参録~
- 2014/07/26
- 16:24

熊沢蕃山墓(鮭延寺・古河市大堤1030-1)熊沢蕃山(1619~1691)は、元和5年に浪人・野尻一利の長男として京都で生まれ、名は伯継、字は了介・了海・良介、通称は左七郎・次郎八・助右衛門といい、蕃山・息游軒・不敢散人・不盈散人・有終庵主と号した。8歳の時、母方の祖父で水戸藩士の熊沢守久の養子となり、熊沢姓を名乗ることとなった。岡山藩主池田光政(1609~1682)に仕え、寛永15年(1638)致仕。寛永19年(1642)伊予国大...
並木栗水~千葉易儒墓参録~
- 2014/07/25
- 21:18

並木栗水墓(東禅寺・香取郡多古町寺作117)並木栗水(1829~1914)は、文政12年に久賀村(現在の多古町)に生まれ、名は正韶、幼名は左門といい、栗水と号し、父の隆定は医家であった。栗水は、大橋訥庵(1816~1862)の高弟で、訥庵の思誠塾では塾頭として師の代講も務めた。訥庵が坂下門の事件を画策したかどで投獄されると、多くの門人は師に連座して捕えられることを恐れ、獄に行き見舞う者は誰も居なかったが、栗水だけは師の...
山本北山~東京易儒墓参録~
- 2014/07/23
- 14:50

山本北山墓(本念寺・文京区白山4丁目34−7)山本北山(1752~1812)は、宝暦2年に富裕な幕府御家人の家に生まれ、名は信有、字は天禧、通称は喜六といい、北山・孝経楼・奚疑堂主人・奚疑翁・学半堂逸士・竹堤隠逸と号し、述古先生と諡された。山崎桃渓に句読を受け、独学で四書五経を修め、のち井上金峨(1732~1784)の折衷学に共鳴し、もっとも経学に優れていた。寛政異学の禁に反対論を唱え、五鬼の一人に数えられた。寛政4年...
稲葉迂斎~東京易儒墓参録~
- 2014/07/22
- 18:37

稲葉迂斎墓(龍光寺・文京区本駒込1-5-22)稲葉迂斎(1684~1760)は、貞享元年に佐倉藩士鈴木正則の男として南麻布で生まれ、名は通経・正義、通称は十五郎・十左衛門といい、迂斎と号した。三宅尚斎(1662~1741)・佐藤直方(1650~1719)・浅見絅斎(1652~1712)に崎門学を学ぶ。正徳5年(1715)に肥前唐津藩に仕え、藩校盈科堂の教授を務めた。また、諸侯からも招聘されて進講した。易書に『易講義』『易本義筆記』がある。...
増島蘭園~東京易儒墓参録~
- 2014/07/21
- 10:17

増島蘭園墓(乗満寺・世田谷区北烏山5-7-1)増島蘭園(1769~1839)は、明和6年に幕府書物奉行増島澧水(1745~1812)の男として江戸で生まれ、名は信行・固、字は孟鞏、通称は金之丞といい、蘭園・蘭畹・櫧陰・石原愚者・不俗庵主人・雲柯と号した。家学を受け、また古賀精里(1750~1817)に従学して朱子学を修める。寛政2年(1790)、昌平黌に学ぶ。同11年(1799)、大御番となり、文化4年(1807)に昌平黌出役。同9年(1812)...
西島柳谷~東京易儒墓参録~
- 2014/07/20
- 10:23

西島柳谷墓(長谷院・江戸川区松本2丁目15−1)西島柳谷(1760~1823)は、宝暦10年に生まれ、名は惟英・謙・準、字は処平・子雄、通称は準造といい、柳谷と号した。江戸芝西久保の人で、19歳の時、倉光亀峰(1730~1789)に従い、のち林述斎(1768~1841)に学ぶ。講説を業とし、特に三礼(周礼・儀礼・礼記)に詳しく、詩文を能くした。易書に『周易講義備要』がある。...
東条一堂~東京易儒墓参録~
- 2014/07/19
- 11:39

東条一堂墓(妙源寺・葛飾区堀切3丁目25−16)東条一堂(1778~1857)は、安永7年に上総夷隅郡八幡原村(現在の千葉県茂原市)の豪農で、江戸で医業もしていた東条自得の次男として生まれ、名は弘、字は子毅、通称は文蔵といい、一堂・瑶谷間人と号した。寛政5年(1793)、京都に上って皆川淇園(1735~1807)に師事し、数年後、江戸に帰って門生に教授。朝川善庵(1781~1849)・佐藤一斎(1772~1859)・尾藤二洲(1745~1814)らと...
東海寺大山墓地
- 2014/07/18
- 17:27

服部南郭(1683~1759)の墓所がある品川区の東海寺大山墓地は、ハカマイラーにはよく知られた場所らしい。入口の案内版にあるように、誰もが知る沢庵さんや、2012年の『天地明察』(V6の岡田くん主演)の主人公・渋川春海の墓所もこの墓地にある。もともと、東海寺は寛永16年(1639)に徳川家光(1604~1651)が但馬国出石の沢庵宗彭を招聘して創建した由緒のある寺院で、沢庵が初代の住職となった。廃仏毀釈により寺領を没収され...
服部南郭~東京易儒墓参録~
- 2014/07/17
- 18:32

服部南郭墓(東海寺墓地・ 品川区北品川四丁目11-8)服部南郭(1683~1759)は、天和3年に京都の町人服部元矩の次男として生まれ、名は元喬、字は子遷、通称は幸八・小右衛門といい、南郭・芙蕖館・観翁・周雪・赤羽と号した。父母の薫陶を受けて幼時から和歌を学び、父の死後江戸へ下って、元禄13年(1700)頃、武蔵川越藩主柳沢吉保(1658~1714)に歌人として仕える。正徳元年(1711)頃、荻生徂徠(1666~1728)に入門し、古文辞...
倉成竜渚~東京易儒墓参録~
- 2014/07/16
- 18:35

倉成竜渚墓(清光院・品川区南品川4丁目2−35)倉成竜渚(1748~1813)は、寛延元年に豊前国上田村の農家に生まれ、名は茎、字は善卿、通称は善治・善司といい、竜渚と号した。明和2年(1765)、中津藩儒藤田敬所(1698~1776)に師事し、さらに京都の伊藤東所(1730~1804)の門に入る。同8年(1771)、中津藩に仕え、のち藩儒、世子侍読となり、寛政2年(1790)藩校進脩館創立に参画した。“竜渚”の号は、藩主奥平昌高(1781~1855...