『校正宋板傷寒論』はしがき
- 2014/08/16
- 10:29

『校正宋板傷寒論』(春光苑漢方研修会/1995年刊)傷寒論のはしがきに代えてある人が、「もしも、あなたが、一冊だけ書物を持つことを許される境遇におかれたら、どんな本を、所望しますか」と尋ねられたら、私はためらうことなく、「傷寒論」と答えるであろう。今日でも、この答えを、変更する必要がないほど、私は傷寒論に、執心している。 これは、大塚敬節先生の最初に逢ったときの言葉である。いまから四十年も前の話である...
粟島先生と傷寒論
- 2014/08/15
- 19:15

私は春光苑漢方研修会で粟島先生から傷寒論の講義を受けたが、先生は日本一の傷寒論研究者であったと思う。 “わが仏尊し”の諺のように、誰でも自分の流派・自らの師こそ一番だと思いたがるものだから、私も完全にその弊を免れるのは不可能であろうと思うけれど、私がそう言うのにはそれなりの根拠がある。 さて、傷寒論の大家とされている大塚敬節先生(1900~1980)が、傷寒論を全篇通して講義されたのは僅かに三度か四度だという...
『細胞の起源』オルガ・レぺシンスカヤ著
- 2014/08/14
- 12:05

オルガ・レぺシンスカヤ独創的な八大原理で構成される千島学説であるが、個々の学説については同じような学説が先行して海外でも提唱されている。例えば、獲得形質が遺伝するという説においては、旧ソ連のトロフィム・ルイセンコ(1898~1976)によるルイセンコ学説というのがあった。しかし、スターリンの支持を得てルイセンコ学説は中国や北朝鮮でも採用されるに至ったものの、スターリン没後のスターリン批判に伴ってルイセンコ...
粟島先生と千島学説
- 2014/08/13
- 15:34

四国での論争を終えた帰りの船上にて、左から粟島師・千島博士・久保博士粟島師は、二木謙三(赤痢菌の新種を2種発見してノーベル賞候補にもなっている)を初代会長として発足し、日本の食養家の大半が出入りした日本綜合医学会の古くからのメンバーで、粟島師の後任で副会長に就任したのが西式の甲田光雄先生(後に会長)だ。 甲田先生とは年齢も近く、同じ大阪であった為、ライバルの関係にあり、顔を合わせる度に喧嘩ばかりして...
石塚右玄
- 2014/08/12
- 18:21

どこかの国の第一書記にちょっぴり似てる石塚右玄初めて粟島先生にお目にかかった際、「一家を成した食養家で面識の無い者はほとんど居らないし、食養の分野で私の知らないことは何一つ無い」と先生は言われた。食養といえば、言わずと知れた桜沢如一(1893~1966)、そしてその源流である陸軍薬剤官石塚左玄(1851~1909)が有名であるが、粟島師は石塚左玄直系として沼田勇先生(1913~2010)作成の食養家系図にその名を連ねてい...
熊崎健翁先生とちゅ光台
- 2014/08/11
- 17:46

熱海の小嵐町に、熊崎健翁先生創建の天神山神社というのが在るのを知ったのは、昨年の秋のことだ。熱海と言えば、熊崎先生の別荘があった場所で、この別荘で先生は亡くなられた。地図上では、「律動会宇宙法則」「ちゅ光台事務所」などが見えるので、この辺りだろうと見当を付け、生まれて初めて熱海の地を踏んだのは12月のことだった。伊東線の来宮駅から徒歩で20分程度の場所なのだが、何せ駅からは上り坂が延々続くので、キャリ...
熊崎健翁先生と五聖閣
- 2014/08/10
- 12:03

晩年の熊崎健翁先生粟島師は十代の頃、五聖閣において熊崎健翁先生(1881~1961)より、周易・四柱推命・手相・人相・姓名学を学ばれている。昭和10年代中頃の事というから、ちゅ心道騒動によって五聖閣黄金期のメンバーが一斉に離反した後で、加藤大岳先生や中村文聰先生らと直接の接触は無かったようだ。粟島先生の学問を支えていたのは、異能とも言える特異な記憶力だったようで、それは五聖閣時代にも遺憾なく発揮されたらしく...
粟島行春先生
- 2014/08/09
- 12:05

在りし日の粟島行春先生今日8月9日は我が師・粟島行春先生(1926~2010)の命日である。先生は北海道の生まれで、25歳の時、郷里を出て全国を回り、土壌の研究を中心に農学畑を歩まれた。34歳の時、バーミキュライトを原料とした土壌改良剤「VS34」を開発され、これは根本龍太郎代議士(中曽根元首相の当選同期で吉田内閣で農林大臣を務めた)の後押しもあって全国に普及、我が国のバーミキュライト土壌改良剤の嚆矢となったもので...
八卦陶磁器アレコレ
- 2014/08/07
- 18:15

確か、算木を探していて知ったのだと思うが、ヤフオクにはよく八卦を描いた焼き物が出品されている。易が今よりも身近なものであった時代には、庶民にも馴染みの深い意匠だったのかもしれない。しかし、よくよく見てみると、まとまな配列になっているものは稀とは言わずとも少数派で、大抵は出鱈目な配列になっているようだ。陰卦陽卦を上下に分けているのは良いが、順番がヘン。これなど、配列もおかしいが、何より巽卦がダブって...
今東光先生今昔
- 2014/08/06
- 18:05

紀元書房を訪れると協会顧問の今東光先生が見えておられた。帰りはご一緒した。ドアのところ迄送つて来られた加藤先生はカゼ気味の今先生のうしろから「お大事に」といつもの通りの静かな口調でいたわられた。其の後日談。「あのときは思わずゾツとしたよ。何しろ日本一の易者からお大事にといわれたので、これは普通のカゼじやないんだナ俺も長いこと無いんじやなかろうか?という気がしてね」と今先生。「ソンナつもりでいつたん...
人気の記事
- 2014/08/05
- 18:45
昨年10月のブログ開設以来、順調に伸びていたアクセス数も、掃苔録の連載以降、目に見えて減ってしまっていたが、連載終了と共に急に回復して来たのには、正直言って驚いた。墓石は男のロマンと信じて疑わない私には、理解に苦しむ現象であるが、ひょっとすると蒼流庵随想の読者層は女性が多いのかも知れない。ところで、アクセス解析をしてみると、どんなワードで検索して訪問されたかが大凡分かるのだが、なるほどと納得するよう...
名・字・諡 etc…
- 2014/08/04
- 18:14
易儒たちの紹介文の中で、名や字、通称といった様々な名前に触れたが、夫々の違いについて知っている人は極少ない。そこで少し解説してみようと思う。名(諱)については取り立てて説明の必要は無いだろうからこれは省く。字(あざな)というものは、先ず名が付けられて、その後に付けられるのだが、必ずその名に関連して付けられるもので、名と字とは接続している。字は名の意義を敷衍する意味で選ばれ、これは周代・春秋以前から...
易学メモリアルラッシュ!
- 2014/08/03
- 10:55
ここしばらくは易学についてメモリアルな歳が続く。今年は水野南北の没後180年であるし、高島嘉右衛門に至ってはちょうど没後100年に当たる。日本易学連合会あたりが何か催しでもしそうなものだが、HPの行事予定にはそれらしい案内はない。来たる2015年は新井白蛾の生誕300年であるが、こちらはちょうど白蛾のネタ元とされる馬場信武の没後300年でもあるところが面白い。ひょっとすると白蛾は信武の生まれ変わりではなかったか。そ...
霊園の憂鬱
- 2014/08/02
- 08:40
およそ目ぼしい易儒の墓所はあらかた訪れているけれど、交通の便が悪い等の理由で調査し切れなかったものも無い訳ではない。例えば、林羅山をはじめとする林家の墓地は新宿に在るのだが、ここは毎年11月の第一土日のみの一般公開であり、ちょうど四天王寺の易学供養塔護持会の日程と重なってしまう為、未訪である。ただし、こちらは、土曜日に参拝してすぐに帰れば何とかなるので、いずれ行く機会はあると思う。しかし、以下のもの...
易儒の墓参を終えて
- 2014/08/01
- 18:19
私がハカマイルの旅を始めたのは二〇〇九年の三月であったから、もう五年以上の歳月が流れたことになる。東京出張の折、二代目道三こと曲直瀬玄朔(1549~1631)の墓所が広尾にあることを知り、他にも何か無いかと思って調べ、浅田宗伯(1815~1894)や荻生徂徠(1666~1728)、高島嘉右衛門(1832~1914)らの墓所が東京に在ることを知った。実際に墓参(練達のハカマイラーは“掃苔”と云うことを後に知った)を始めてみると、不思議...