華岡鹿城の墓
- 2014/09/30
- 18:16

華岡鹿城墓(華岡家墓地/和歌山県紀の川市西野山)青洲の弟である華岡鹿城(1779~1827)は、安永8年に生まれ、名は文献、字は子徴、通称を良平といい、鹿城・中洲と号した。早くに父を失い、兄の青洲に養育され、のちその養嗣子となる。寛政8年(1796)京都に赴き、吉益南涯(1750~1813)に古医方を、佐野山陰(1751~1819)に儒学を学ぶ。文化元年(1804)に帰郷して青洲より華岡流外科を修得した後、泉州堺、次いで大阪中之島...
青洲の里を歩く
- 2014/09/29
- 18:22

名手駅からは案内版だらけJR名手駅から北東へ徒歩20分ほどの場所に、青洲ら華岡家の墓所があるが、付近には青洲の記念公園やミュージアムがあり、ハイキングがてら降り立ってみるのも楽しい。駅からはそこかしこに案内板があるので、方向音痴でも迷子になる心配は御無用。ようやく“青洲の里”へ。緩やかな上りの20分は結構キツイ。華岡青洲座像(青洲の里内)青洲の里に足を踏み入れるとまず目につくが、写真の座像である。右の石碑...
華岡青洲の墓
- 2014/09/28
- 08:21

華岡青洲墓(華岡家墓地/和歌山県紀の川市西野山)テレビドラマ化もされた有吉佐和子氏(1931~1984)の小説『華岡青洲の妻』によって、漢方に特別の関心を持たない人々にまで其の名が知られるようになった華岡青洲(1760~1835)は、宝暦10年に紀伊国那賀郡名手荘西野山村(現在の和歌山県紀の川市西野山)で生まれ、名は震、字は伯行、通称を雲平・随賢(三世)といい、青洲・春林軒と号した。初め家学を受け、天明2年(1782)京...
奥村良竹の墓
- 2014/09/27
- 15:58

奥村良竹顕彰碑(常光寺/福井県南条郡南越前町上平吹)独嘯庵の吐方の師である奥村良竹(1686~1760)は、貞享3年に越前国府中松森村(現在の福井県武生市)に生まれ、名を直、号を南山といった。幼少より山崎良伯に医術を学ぶが、奥村家の貧窮を救う為、師の下を去って大阪の商家へ年期奉公に出なければならなかった。商道に入るも医学の道を捨て切れず、良伯の求めに応じて郷里に帰り、後に医家として独立した。医家の後藤艮山(...
亀井南冥の墓
- 2014/09/26
- 18:20

亀井南冥墓(浄満寺/福岡市中央区地行2丁目3−3)貝原益軒の墓所がある金龍寺の北側に明治通りを隔てて隣接する浄満寺には、亀井南冥および昭陽の墓所がある。亀井南冥(1734~1814)は、大儒としての名声が余りに大きい為に、医家としての南冥に注目する人は多くはないが、永富独嘯庵(1732~1766)の高弟として、小石元俊(1743~1809)、小田享叔(1747~1801)と共に「独嘯庵門下の三傑」に数えられた程の人物であり、九州では...
貝原益軒の墓
- 2014/09/25
- 17:41

貝原益軒墓(金龍寺/福岡市中央区今川2‐3)香月牛山の儒学上の師である貝原益軒(1630~1714)は、『養生訓』の著者として今日でもその名は有名で、『養生訓』は文庫だけでも現在三種類(岩波・中公・講談社学術)が入手可能である。一般には『養生訓』のイメージばかりが強いが、“筑前の鴻儒”とも言われ、生涯に残した60部270余巻の著作中には、本草学や医学についてのものも数多い。益軒は、福岡藩医貝原寛斎(1597~1666)の五男...
香月牛山翁分骨之墓
- 2014/09/24
- 18:35

香月牛山翁分骨之墓(吉祥寺/北九州市八幡西区吉祥寺町13−11)かつて香月村だった八幡西区の香月地区に吉祥寺という古刹があって、ここには牛山の分骨を収めた墓および牛山が75歳で中津小笠原藩の藩医を辞した際に建立した壽塔が現存している。同寺には、先祖の香月七郎則宗候の座像も奉納されたという。この地域は、中世、豪族の香月氏が支配しており、吉祥寺を開山した鎮西上人(1162~1238)も香月氏の出身である。吉祥寺および...
香月牛山の墓
- 2014/09/23
- 13:48

香月牛山墓(円応寺/北九州市小倉北区清水4丁目5-1)永富独嘯庵(1732~1766)は、吉益東洞(1702~1773)らと共に、古方派の名医の一人として有名であるけれど、治験例を読んでみると、その薬方運用は東洞らのそれとは随分違っていて、むしろ後世方のニュアンスが強い。これは師の山脇東洋(1706~1762)も同様であって、古方派といえども、東洋の場合は家学が曲直瀬玄朔(1549~1631)を淵源としているから、その影響が自然に出て来...
青木先生と大阪を歩く
- 2014/09/22
- 22:39

阿倍王子神社(大阪市阿倍野区阿倍野元町9−4)久しぶりに占星術家の青木良仁先生が来られたので、ご一緒に大阪を散策する。最近、或るきっかけで安倍晴明と陰陽道について読み返しているという青木先生は、阿倍野区にある晴明ゆかりの神社へ行ってみたいと希望され、まずはそこへご案内する。オンキリキリナンタラカンタラ・・・安倍晴明公像(安倍晴明神社/大阪市阿倍野区阿倍野元町5-16)安倍晴明神社は、阿倍王子神社の末社で、...
山脇社中解剖供養碑
- 2014/09/21
- 13:06

山脇社中解剖供養碑(誓願寺墓地/中京区新京極三条下ル東入ル)中京区の誓願寺墓地には、山脇一族の墓碑と、解剖された囚人の霊を弔う為に建立された山脇社中解剖供養碑がある。墓地には普段、鍵が掛けられているので、南に百メートルほどの場所にある誓願寺に申し出て、参拝許可を貰わなければならない。山脇社中解剖供養碑には、14名の戒名が刻まれているが、誰が何時建立したのかについては、記録が無く不明である。医史学の大...
山脇東洋観臓之地
- 2014/09/20
- 11:52

山脇東洋観臓記念碑(中京区六角通神泉苑西入南側)臨床重視の古医方家であった後藤艮山に学んだ東洋は、次第に人体解剖に関心を抱くようになったが、当時の倫理観では人体解剖は到底許されざる行為であり、官の長く禁制とするところであった。そこで東洋は、人体と構造が類似すると言われていたカワウソを何匹も解剖してみたが、研究を重ねるにつれ、中国古来の五臓六腑説に対する疑問は深まるばかりだった。東洋の門人である小杉...
山脇東洋の墓
- 2014/09/19
- 21:40

山脇東洋墓(真宗院/京都市伏見区深草真宗院山町26)永富独嘯庵の医術の師は山脇東洋(1706~1762)である。東洋は丹波の医師清水立安の長男として宝永2年に生まれ、名は尚徳、字は玄飛・子樹、通称は道作といい、初め移山、のち東洋と号した。父立安が山脇玄修(1654~1727)の門人であったことから、享保11年(1726)に山脇家の養嗣子となる。養祖父に当たる山脇玄心(1594~1678)は、曲直瀬玄朔(1549~1631)の門人で、山脇家...
経子史要覧
- 2014/09/18
- 18:17

経子史要覧(『荻生徂徠全集』第3巻所収)荻生徂徠(1666~1728)の手に成る『経子史要覧』という小篇があって、この書物へ私をいざなったのは、故丸谷才一氏の『文章読本』であった。丸谷氏の説くところ、入門書はまず“偉い学者の書いた薄い本”を読むべきで、反対に読むべからざる本は“偉くない学者の書いた厚い本”であるという。本書は、毛詩から漢書に至る支那の古典の概略を簡潔に、また明晰に纏めたもので、この薄い書物を通読...
荻生徂徠の墓
- 2014/09/17
- 18:13

荻生徂徠墓(長松寺/東京都港区三田4丁目7−29)永富独嘯庵(1732~1766)は、儒学の上では荻生徂徠(1666~1728)の学統である。三田の長松寺にある徂徠の墓は、五年前にハカマイルを始めた際、第一カ所目に訪れた場所であるので、或る意味では最も思い入れの深い墓と言ってもいい。徂徠は五代将軍徳川綱吉の侍医であった荻生方庵(1626~1706)の次男として生まれ、名は双松、初名は景丸・景元、字は茂卿・公材、通称は伝次郎・伝...
医聖永富独嘯庵
- 2014/09/16
- 19:14

永富独嘯庵墓(蔵鷺庵/大阪市天王寺区上之宮町4-33 )粟島先生が私淑して心の師と仰いでおられたのが、夭折の天才永富独嘯庵(1732~1766)である。永富独嘯庵は、享保17年(1732)長門の庄屋・勝原治左衛門の三男として長門に生まれ、名を鳳介、字を朝陽と称した。幼くして病を得、香月牛山門下の後世方医永富友庵の治療を受けた事が縁で永富家の養子となる。養父友庵から李東垣の医学を、養父の勧めで萩藩医井上元昌より朱丹渓の...