易学家の饗宴
- 2014/10/31
- 23:16

神楽坂 八百萬(新宿区神楽坂3-1 クレール神楽坂Ⅲ2F)近世易学研究の大家・奈良場勝先生と半年ぶりに会食。会場は、先生がチョイスされた神楽坂の八百萬である。蒼流庵主人にとっては初めて足を踏み入れる地域であり、少々迷子になりながら、10分ほど遅れて先生と合流した。お上品でイカしたお料理の数々先生の如きマエストロと歓談しながらの御酒と御料理はまた格別である。奈良場先生は、最近ではフランスや中国の研究者からも...
大塚敬節先生顕彰之碑
- 2014/10/30
- 17:35

大塚敬節先生顕彰之碑(大塚家墓所内/多磨霊園)大塚敬節先生(1900~1980)と言えば、言わずと知れた昭和漢方界の第一人者で、傷寒論研究から古医書の復刻、今日高血圧に常用されている七物降下湯の創方など、その業績は多岐にわたり、1978年には日本医師会より最高優功賞を受賞されている。大塚先生は、明治33年に高知で生まれ、実家の大塚修琴堂医院は産婦人科であった。熊本県立医学専門学校(現熊本大学医学部)を出て医師と...
湯本求真の墓
- 2014/10/29
- 19:51

湯本求真墓(東町墓地/千葉県山武郡横芝光町)和田啓十郎の門人の中で最も有名なのは湯本求真(1876~1941)であろう。湯本求真は、明治9年に石川県で生まれ、名を四郎右衛門といった。明治34年に金沢医学専門学校 (現金沢大学医学部) を卒業し、翌年、栃木県立病院に勤務した後、郷里である石川県七尾町に開業した。日露戦争が勃発すると、徴兵副医官となって従軍し、戦争終結後の明治39年春には、勲六等に叙せられた。明治43年に...
漢方医学復興之地
- 2014/10/28
- 18:23

漢方医学復興之地碑(東京都中央区日本橋浜町2-9)玄治店から東に300mほど、浜町緑道の端に「漢方医学復興之地」と刻まれた黒御影の石碑がある。これは、明治期に漢方医学が国策として排斥され、まさに滅びようとしていた時代に、『医界之鉄椎』を自費出版して、漢方医学の復興に立ち上がった漢方医・和田啓十郎(1872~1916)の偉業を顕彰する為、かつての医院跡に、日本東洋医学会・東亜医学協会・日本医史学会の協賛で建立され...
尾台榕堂の墓
- 2014/10/27
- 18:35

尾台榕堂墓(観音寺/台東区谷中5-8-28)幕末から明治維新にかけて活躍した医家として、浅田宗伯(1815~1894)と双璧を成す尾台榕堂(1799~1870)は、寛政11年に越後国魚沼郡中条村で生まれ、名は元逸・逸、字は士超、通称を四郎治・良作といい、榕堂・敲雲と号した。16歳より岑貉丘(1732~1818)の門人である尾台浅岳の門に入って古医方を学び、儒学を亀田綾瀬(1778~1853)に学んだ。文政7年(1824)に一旦郷里に帰り、医業を...
尾台榕堂住居跡碑
- 2014/10/26
- 11:21

尾台榕堂住居跡碑(東京都中央区京橋1-1-1)今日は東京の八重洲ホールにて、第1回尾台榕堂顕彰会が開催されている。会長の花輪壽彦先生はじめ、豪華な面々による魅力的な公演が行われているようだ。蒼流庵主人は残念ながら不参加であるが、参加の方々は今頃有意義なひと時を過ごされていることだろう。昼の休憩時には、尾台榕堂住居跡碑前で記念撮影も行われるようだ。この石碑は、2011年10月に尾台榕堂の没後140年を記念して、か...
『万病回春』について
- 2014/10/25
- 13:39
岡本玄治が影響を受けた『万病回春』は、明代の名医・龔廷賢(1539?~1632)の著述である。医史学の大家である真柳誠先生の研究によると、本書が江戸前期の医学に与えた影響は極めて大きく、まさに『万病回春』一色であったと表現しても過言ではないという。和刻の歴史を見ると、江戸時代のごく初期に初めて復刻され、江戸時代を通じて30回近く出版されており、これは中国を凌ぐ回数で、しかもそれは江戸前期の約100年の間に集中...
岡本玄冶の墓
- 2014/10/24
- 18:11

岡本玄冶墓(祥雲寺/ 渋谷区広尾5-1-21)祥雲寺には、曲直瀬玄朔の高弟であり、その娘婿でもある岡本玄治(1587~1645)の墓所もある。岡本玄治は、天正15年に京都で生まれ、名を宗什・諸品、通称を玄冶といい、啓迪院と号した。16歳で曲直瀬玄朔の門下に入って頭角を現す。当時、日本漢方の頂点に居た玄朔が、自分の娘を娶せた位だから、どれほどの人物であったかが窺い知れる。朝鮮から『医方考』『医学入門』『万病回春』の三部...
『薬性能毒』曲直瀬玄朔著
- 2014/10/23
- 18:37

『薬性能毒』曲直瀬玄朔著(土と文化社/1975年復刻)粟島先生が本草学のテキストとして講座で用いられたのが曲直瀬玄朔の『薬性能毒』である。本書は初代道三の『注能毒』に、玄朔が渡来後間もない『本草綱目』を利用して増補を行ったもので、いわば『本草綱目』のダイジェスト版といった内容であり、290種類の薬物が収載されている。内容はあくまでも『本草綱目』を簡略に纏めたもので、玄朔の創意はほとんど見られないのだが、大...
曲直瀬玄朔の墓
- 2014/10/22
- 18:43

曲直瀬玄朔墓(祥雲寺/ 渋谷区広尾5-1-21)初代曲直瀬道三(1507~1594)の養嗣子となって、二代目道三を名乗ったのが、曲直瀬玄朔(1549~1631)である。玄朔は、天文18年に道三の妹・堀部左門親真の子として生まれ、名は正紹、幼名は大力之助、通称を道三(二世)といい、玄朔・東井・延命院・延寿院と号した。天正9年(1581)に初代道三の養子となり、同14年には法印に叙せられる。豊臣秀吉に仕え、九州・朝鮮にも従軍し、治療...
足利学校
- 2014/10/21
- 21:05

田代三喜や初代曲直瀬道三は足利学校の出身である。足利学校は、室町時代から戦国時代にかけて隆盛を極め、当時は関東における事実上の最高学府であったと言って良い(創建年代については諸説あり、起源は足利時代よりもずっと古いとする説もあるようだ)。足利学校が名を高め、その出身者が迎え入れられた大きな理由は易筮にあったらしく、占筮に通暁した人間が、武家の顧問的性格をもって迎え入れられ、激動の時代には特にその出...
田代三喜の生地を訪ねて
- 2014/10/20
- 18:26

田代三喜顕彰碑(最勝寺/埼玉県入間郡越生町堂山287)田代三喜の生地である越生(一説に川越とも)の最勝寺には、田代三喜翁顕彰委員会が中心となって各方面から寄付を集め、昭和62年4月に建立された三喜の顕彰碑がある。顕彰碑アップ寄進者には著名な大物の名が沢山見える。田代三喜の生地(埼玉県入間郡越生町古池464)生地跡と伝えられる越生町古池の吉澤家(三喜の子孫という)の庭先には、生地跡を示す標柱や石碑がある。最勝...
医聖田代三喜翁供養碑
- 2014/10/19
- 20:01

医聖田代三喜翁供養碑(永仙院跡/茨城県古河市桜町128)初代曲直瀬道三の師は足利学校の先輩でもある田代三喜(1465~1544)である。田代三喜は、寛正6年に武州(埼玉県)川越で生まれ(越生とする説あり)、15歳の時、父業を継いで医家となるべく妙心寺派の僧侶となり(当時は医家が僧職を兼ねる習わしがあった)、足利学校に学ぶ。鎌倉円覚寺の塔頭・江春庵に一時の居を構えていたが、三喜の高名を聞いた足利成氏(1434~1497)...
曲直瀬道三の墓
- 2014/10/18
- 14:49

曲直瀬道三墓(十念寺/京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町13)粟島先生は、永富独嘯庵や吉益東洞に私淑され、臨床上も特に東洞の薬方運用を踏襲されていたが、東洞のように後世方を激しく排撃するような立場はとられなかった。その点では、折衷派と言えるかもしれない。実際、曲直瀬道三の『切紙』などを講座のテキストに用いられたこともあったようだ。今日は、少し曲直瀬道三(1507~1594)について、その墓碑と共にご紹介する...
抜き書き「占業界昔噺」
- 2014/10/17
- 18:35

いわゆる「高島易者」なるものの横行が、どれだけ世に易を誤解させ、世人の軽侮を購う働きをやってのけているかに痛こくせざるを得ない。これは二十年をもっと遡る昔話になるが、昭和五年五月赤坂新坂町に大看板を挙げた「高島伝右衛門」事奥村某(特に名を秘す)が前科三犯のしたたか者で、巧みにおどかしては法外の鑑定料を巻上げたばかりか婦人の客を片端から毒牙にかけていたことが一被害者の駆け込み訴えによって暴露、これが...