狩野亨吉の墓
- 2014/11/30
- 13:10

狩野亨吉墓(多磨霊園8区1種13側21番)安藤昌益の発見者である狩野亨吉(1865~1942)は、慶応元年に久保田藩士・狩野良知(1829~1906)の子として生まれた。易儒ではないが、「亨吉」の名は明らかに易経由来だろう。明治元年の戊辰戦争により、父良知が勤める大館城は落城し、幼少の亨吉は姉に背負われて津軽藩に避難した。その後、一家は上京し、亨吉は東京帝国大学および同大学院で学んで、明治40年には文学博士となった。明治...
『自然真営道』発見の地
- 2014/11/29
- 19:24

『自然真営道』発見の地(東京都足立区千住仲町21-8)安藤昌益の稿本『自然真営道』は、どういう訳か北千住で秘匿されていた。持ち主は、この地の名士だった橋本律蔵(1824~1882)という穀物問屋で、この人は中々の文化人だったらしいのだが、膨大な蔵書は死後に売り出され、古書店に引き取られた中に稿本『自然真営道』があった。それを買い求めたのが、狩野亨吉(1865~1942)である。大館で生まれ、八戸で活躍した昌益の手書き...
安藤昌益の墓
- 2014/11/28
- 17:52

JR扇田駅安藤昌益の墓参のため、菩提寺の最寄り駅である扇田駅に降り立ったのは、2011年7月11日の昼下がりのことだった。当時、すでに目ぼしい漢方家の墓参はあらかた終えていたが、東北はさすがに遠くて中々踏ん切りがつかずにいた。いつもの激安夜行バスプランで決行しようにも、そもそも大阪と秋田の直通便は廃止されて久しい。仙台までは直通便があるので、そこから電車で移動するプランも考えてはみたのだが、秋田に到着する...
安藤昌益について
- 2014/11/27
- 18:55
安藤昌益(1703~1762)といえば、思想家としての側面ばかりが有名で、本業である医家としての顔はあまり知られていない。医家であることを知る人すら少ないのではあるまいか。味岡三伯の門に学んだというから岡本一抱とは兄弟弟子の間柄かと思っていたが、どうも昌益の学んだ三伯と一抱の学んだ三伯とは同じ人ではないらしい。味岡三伯は三代に渡って医書の講説を得意とした京都の医家で、一抱が学んだのは初代三伯(1629~1698)...
粟島先生と五行論
- 2014/11/26
- 18:15
粟島先生は、晩年でこそ『黄帝内経素問』や『金匱要略』の講義をされていたけれど、ご自身が主催された研究会では随分長い間、只管『傷寒論』にのみ取り組んでこられた。これは勿論、先生が私淑された吉益東洞や永富独嘯庵が『傷寒論』を最重視したことにもよるのだが、もう一つ、また別な理由があったという。内経や難経、金匱といった古典は、その基礎を五行に置いている訳だが、先生は長らくこの五行について幾つかの疑問を抱い...
神農湯呑
- 2014/11/25
- 18:01

神農湯呑(橋本よし子先生作)プレゼント用に依頼した神農カップが中々の出来栄えだったので、自分用に湯呑が欲しくなり、製作して頂いたのが上掲のものである。湯呑とだけ指定して形状はお任せしたのだが、出来あがって来た一見湯呑らしからぬこの新作は、手に持った時のフィット感が抜群で、その点では前作を遥かに凌ぐ逸品だ。前作は、しがんでいる植物を両手に持っていたところがやや神農らしからぬ図柄だったので、今回は王道...
神農カップ
- 2014/11/24
- 13:30

神農カップ(橋本よし子先生作)毎年6月には、御世話になっている漢方家の先生に誕生日プレゼントを贈っているのだが、最近はいよいよネタ切れになってきて、毎年チョイスに事欠くようになっている。しかし、今年選んだ写真のマグカップは、これまでで一番気に入って頂けたらしく、漢方は毎日これで御飲みになっているそうだ。喜んで頂けたうえに、毎日使って下さっているとは、贈呈した者としていよいよ嬉しい。この作品は、滋賀...
今日は神農祭
- 2014/11/23
- 13:55

少彦名神社(大阪市中央区道修町2丁目1−8)道修町の少彦名神社は、「神農さん」の愛称で親しまれて庶民の信仰を集めているが、それほど古い神社ではなく、安永9年(1780)に京都の五條天神より少彦名命をお招きして炎帝神農氏とともに御祀りしたのがその起源という。毎年11月の22日23日には神農祭が催され、東京でも湯島聖堂において神農祭が行われている(こちらは23日のみ)。漢方家が中心の東京神農祭と違い、大阪は場所柄、薬...
権田直助の墓
- 2014/11/22
- 16:40

権田直助墓(権田公園内)幕末維新に活躍した勤皇の志士として有名な権田直助(1809~1887)は、文化6年に武蔵国入間郡毛呂本郷の医師権田嘉七郎の男として生まれ、名は直助、字を玄常といい、名越廼舎と号した。江戸に出て幕府の医官・野間広春院(1775~1850)より医学を、安積艮斎(1791~1861)より儒学を学ぶ。帰郷して開業したが、天保8年(1837)平田篤胤(1776~1843)に入門し、「皇朝医学」を唱えた。文久2年(1862)京...
塙保己一の墓
- 2014/11/21
- 18:21

塙保己一墓(愛染院/東京都新宿区若葉2-8)平田篤胤(1776~1843)は、塙保己一(1746~1821)の門で学んだことがある。『群書類従』の編者として名高い塙保己一は、延享3年に武蔵国児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市児玉町保木野)に生まれ、姓は荻野、幼名を辰之助といった。5歳で病にかかり、7歳で失明したが、13歳のとき江戸に出て雨富検校須賀一の門下となった。後年、保己一が名乗った塙という在名は、師匠である雨富須賀...
平田篤胤の古事記
- 2014/11/20
- 19:10

平田篤胤全集1~5(内外書籍/昭和7年刊)神代文字の研究者でもあった粟島先生は、平田篤胤による『古事記』の注解を重視しておられた。 『古事記』の注解といえば、国文学の世界では本居宣長の『古事記伝』が最も基本的なテキストということになっているが、粟島先生によると、宣長には古代の日本語に対する理解が不足しており、神代文字を研究した篤胤に比べて、正しく『古事記』を読解出来ていないという。 私は神代文字や古史古...
本居宣長の墓
- 2014/11/19
- 18:17

本居宣長墓(樹敬寺/三重県松阪市新町874)平田篤胤は、本居宣長(1730~1801)の没後の門人である。宣長は、享保15年に伊勢国松坂で木綿商を営む小津家(小津安二郎の同族である)に生まれ、名は栄貞、通称を弥四郎・健蔵といい、芝蘭・瞬庵・春庵と号した。本居は先祖の姓である。「鈴屋」と名付けた書斎で講義を行ったことから、「鈴屋大人」と呼ばれた。京都で堀元厚らに医学を学び、堀景山(1688~1757)に儒学・国学を学んだ...
平田篤胤の墓
- 2014/11/18
- 18:25

平田篤胤(1776~1843)は、天保14年閏9月11日に68歳で没し、秋田の手形山に葬られた。この手形山は秋田駅から北東へ徒歩30分ほどの場所で、秋田大学の裏山である。さすがに国の史跡指定を受けているだけあって、懇切丁寧な案内板が墓所へと誘ってくれるため、迷子になる心配は皆無。もう間もなくのようだ。最後は坂が続くので、油断は禁物!坂の途中で、奇妙な祠を発見古いのも新しいのも混ざっていて、なんだか雑貨屋のような雰...
平田篤胤
- 2014/11/17
- 17:48

平田篤胤肖像(『医家先哲肖像集』藤浪剛一編より)粟島先生は、晩年、平田篤胤(1776~1843)に強い関心を示され、『志都能石屋』や『医宗仲景考』などを読んでおられた。平田篤胤と言えば、復古神道(古道学)の大成者であり、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学四大人の一人に数えられ、明治維新の原動力となった国学者としてのイメージが強いが、同郷の安藤昌益と同じく医家としての顔を持ち、東洋医学の徒にも見過ごせ...
気づけば、10000ヒット!
- 2014/11/15
- 16:05

気づけば、いつの間にやらアクセスカウンターが、大台の10000を超えている。これも、飽きずにチェックして下さる読者諸氏方々のおかげ。感謝感激である。アクセス数が増えることだけを喜ぶブロガーも少なくないらしいが、私は数より質をこそ重視したいので、自分のクリックや同じ日の再訪はカウントしないようにカウンターを設定している。ということは、この10000のアクセスは、正真正銘、何がしかの関心を持ってくださった方の実...