易学大忘年会
- 2014/12/30
- 23:51

左から加賀井養賢先生、蒼流庵主人、奈良場勝先生(酒泉百菜 登美也にて)年の瀬も迫った12月30日、京都に只ならぬ気配を漂わせた四人の男たちが集った。一人は近世易学研究の第一人者・奈良場勝先生、そして、神業としか言い様のない精度を誇るアストロロジャー・青木良仁先生、更に、サイキックヒーラーの加賀井養賢先生、最後はお三方に比すれば凡庸陳腐なこと此の上無き蒼流庵主人である。それぞれ、共通項は易学を嗜むことと...
浅井貞庵の墓~愛知漢方史跡~
- 2014/12/29
- 13:45

浅井貞庵墓(常楽寺/名古屋市千種区城山町2-47)浅井貞庵(1770~1829)は、明和7年に医の名家浅井家に生まれ、名は正封、字は尭甫、通称を小藤太・平之丞といい、貞庵・槲園・静観堂、文燭亭と号した。浅井家は、享保10年(1725)初代東軒(1672~1753)が尾張六代藩主継友によって京都から召されて藩医となり、明治2年に尾張医学館が廃止されるまで、代々尾張の医学振興に尽くした。貞庵は、8歳で父母を失い、祖父図南(1706~17...
伊藤圭介の碑~愛知漢方史跡~
- 2014/12/28
- 13:31

伊藤圭介先生之碑(平和公園光勝院墓地/名古屋市千種区平和公園2丁目)伊藤圭介(1803~1901)は、享和3年に名古屋の町医西山玄道(1752~1843)の次男として生まれ、名は舜民、字は戴尭・清民・左仲、通称を圭介といい、錦窠・太古山樵・花繞書屋・十二花楼・脩養堂と号した。洋学を藤林泰助(1781~1836)に、本草学を水谷豊文(1779~1833)に学ぶ。文政10年(1827)江戸に出、宇田川榕菴(1798~1846)と交わり、続いて長崎に...
伊藤鳳山の墓~愛知漢方史跡~
- 2014/12/27
- 16:23

伊藤鳳山墓(蔵王霊園/田原市田原町蔵王下)伊藤鳳山(1806~1870)は、文化3年に出羽酒田の町医の家に生まれ、名は馨、字は子徳、通称を郷太郎・大三郎といい、鳳山・学半楼と号した。江戸の朝川善庵(1781~1849)に養われて経学を学び、天保5年(1834)に養子となったが、2年ほどで離縁。天保9年(1838)、田原藩家老渡辺崋山(1793~1841)らの推挙によって成章館の教授となり、同藩の学術振興に努め、家老渡辺崋山、藩医鈴木...
永田徳本の墓~長野漢方史跡~
- 2014/12/26
- 18:15

永田徳本墓(尼堂墓地/岡谷市長地柴宮1)永田徳本(1513?~1630?)と言えば、田代三喜や曲直瀬道三と並び「医聖」と称される室町から江戸時代初期の名医だが、其の真像は虚実入り乱れて謎に包まれており、正確な生没年もよく判らない。三河の生まれとも甲斐の生まれともいい、全国を遊歴したが、甲斐で永く活動した為、「甲斐の徳本」と呼ばれ、「甲斐扁鵲」とも称された。また、如何なる治療に対しても一服十六文(十八文とも)の...
奥田謙蔵の墓~横浜漢方史跡~
- 2014/12/25
- 18:27

奥田謙蔵墓(総持寺/横浜市鶴見区鶴見2-1-1)いわゆる“千葉古方”の源流である奥田謙蔵先生(1884~1961)は、明治17年に代々高松藩医を務めた家系に生まれ、父方の祖父三井公圭は吉益家にて漢方を学び、長崎に遊学してシーボルトの塾にも学んだ人という。大正4年に日本医学専門学校を卒業した奥田先生は、郷里に帰って父光景氏のもとで家学である古方医学の研鑽を積み、大正7年に上京して、小河内村の村医となった。大正14年には、...
片倉鶴陵の墓~東京漢方史跡~
- 2014/12/24
- 18:24

片倉鶴陵墓(雑司ヶ谷霊園/豊島区南池袋4-25-1)片倉鶴陵(1751~1822)は、宝暦元年に相州築井の木村家に生まれ、名は元周、字を深甫といい、鶴陵・静倹堂と号した。幼少の頃、近くの医師片倉周意の養子となった。12歳で江戸に出て、養父の旧師・多紀元孝(1695~1766)の学撲となって医を学び、元孝の孫・元簡(1755~1810)が井上金峨(1732~1784)の塾に通学していた関係で、そのお伴をすることで漢学を共に学ぶことが出来た...
小野蘭山の墓~東京漢方史跡~
- 2014/12/23
- 10:34

小野蘭山墓(迎接院墓地/練馬区練馬4-27)シーボルトによって“日本のリンネ”と讃えられた本草学の大御所・小野蘭山(1729~1810)は、享保14年に京都で生まれ、本姓は佐伯、名は職博、字は以文、通称を喜内といい、蘭山と号した。父の師であった松岡恕庵(1668~1746)に本草学を学び始めるが、間もなくして恕庵が他界した為、以後は独学で本草学を学ぶ。当時、我が国の本草学は李時珍(1518~1593)の『本草綱目』を切り貼りして...
伊沢蘭軒の墓~東京漢方史跡~
- 2014/12/22
- 18:06

伊沢蘭軒墓(長谷寺/港区西麻布2‐21‐34)伊沢蘭軒(1777~1829)は、安永6年に江戸の本郷で生まれ、名は信恬、字は憺甫、通称を辞安といい、蘭軒・酌源堂などを号とした。泉豊洲(1758~1809)につき経学を学ぶ(同門に狩谷棭斎がいる)。父の後を嗣いで備後福山藩医となり、文化3年(1806)長崎奉行曲淵景露に従って長崎に行き、翌年、江戸に帰った。漢詩を能くし、菅茶山や頼山陽、亀田鵬斎らと交流した。著書に『傷寒論輯義筆記...
瀬丘長圭の墓~東京漢方史跡~
- 2014/12/21
- 10:42

瀬丘長圭墓(長泉寺/文京区本郷5-6-1)長泉寺には、岑貉丘の他に、もう一人外せない古方家の墓所がある。瀬丘長圭(1733~1781)は、享保18年に生まれ、名は珽、字を長圭・長珪といい、自得軒と号した。吉益東洞の門に学ぶ。東洞流では腹診を重視するが、長圭はこれをさらに探求して、独自の腹診を体系化し『診極図説』を著した。「日本漢方腹診叢書」(オリエント出版社)における松本一男氏の解説では、稲葉文礼『腹証奇覧』や...
岑貉丘の墓~東京漢方史跡~
- 2014/12/20
- 16:25

岑貉丘墓(長泉寺/文京区本郷5-6-1)岑貉丘(1732~1818)は、享保17年に長州で生まれ、名は逸、字は斑如・琴如・帰昌、通称を右膳・少翁といい、貉丘と号した。京都で吉益東洞(1702~1773)に学び、後に江戸本所にて開業する。その医術の水準を窺い知る資料に乏しいが、東洞門下中、村井琴山(1733~1815)と並び称されたというから、傑出した医家であったことは間違いない。孫弟子に尾台榕堂(1799~1870)がいる。墓所のある...
原氏墓所~東京漢方史跡~
- 2014/12/19
- 18:45

原氏墓所(洞泉寺墓地/文京区本駒込3-19-4)本駒込の洞泉寺には、儒医・原双桂(1718~1764)ら原一族の墓所があり、昭和39年には東京都の史跡指定を受けている。原双桂墓本邦初の温泉医学の研究で知られる原双桂(1718~1764)は享保3年に京都で生まれ、名は瑜、字は公瑶、通称を三右衛門・尚庵といい、双桂と号した。10歳で伊藤東涯(1670~1736)に古学を、山脇玄心(1594~1678)に医学を学ぶ。外祖父芸庵を頼って江戸に出、青...
喜多村直寛の墓~東京漢方史跡~
- 2014/12/18
- 17:54

喜多村直寛墓(称福寺墓地/台東区浅草今戸町2-6)幕末に活躍した医学館考証派の重鎮・喜多村直寛(1804~1876)は、幕府医官喜多村槐園(1769~??)の長男として文化元年に生まれ、名は直寛、字は子栗、通称を安斎・安正といい、栲窓・香城・楽山・龍尾と号した。安積艮斎(1791~1861)に学び、天保12年(1841)医学館教諭、のち侍医となり、嘉永2年(1849)には法眼に叙せられる。多数の医書を注釈し、また『医方類聚』『太平御...
杉本樗園の墓~東京漢方史跡~
- 2014/12/17
- 18:32

杉本樗園墓(瑞輪寺/台東区谷中4-2-45)医学館考証派を代表する儒医である杉本樗園(1770~1836)は、明和7年に幕府医官・宮村永順受正の男として生まれ、名は良、字は子敬、通称を幸太郎・忠恩・仲温といい、樗園・樗苑・宗春院と号した。同じく幕府医官の杉本良猷の養子となり、天明元年(1781)に家を継いだ。寛政6年(1794)御番医師、同9年には西城侍医と累進し、法眼に叙せられた。文化5年(1808)本城侍医となり、同12年に...
浅田宗伯の墓~東京漢方史跡~
- 2014/12/16
- 18:12

浅田宗伯墓(谷中霊園/台東区谷中7丁目5−24)浅田飴の発案者として有名な浅田宗伯(1815~1894)は、文化12年に信州筑摩郡栗林村(現在の松本市島立)で生まれ、名は惟常、字は識此、通称を宗伯といい、栗園と号した。祖父東斎、父済庵ともに儒医であった。はじめ高遠藩の藩医中村中倧(1778~1851)の門に入り、一年ほどして京都に上った。中西深斎(1724~1803)の開いた塾で古方を、猪飼敬所(1761~1845)より経書を、頼山陽(...