宇津木昆台の墓~京都漢方史跡~
- 2015/01/14
- 18:02

宇津木昆台墓(慈氏院だるま堂/左京区南禅寺福地町86−14)宇津木昆台(1779~1848)は、安永8年に尾張で生まれ、名は益夫・謙、字は天放、通称を太一郎といい、昆台・五足斎・霞谷と号した。幼時より学を好んで、松田棣園(1770~1829)に従学し、医を浅井貞庵・平野竜門(??~1816)に学ぶ。18歳で京都に遊学し、吉益南涯らに学んだ。車屋町柳小路に居を定め、妙法院宮微妙法親王の侍医となり、古医方の大家として知られた。昆...
並河天民の墓~京都漢方史跡~
- 2015/01/13
- 18:12

並河天民墓(清閑寺/東山区清閑寺山ノ内町11−1)並河天民(1679~1718)は、延宝7年に山城紀伊郡横大路村(現在の伏見区横大路)で生まれ、名は良弼・亮、字は簡亮・伝亮・永亮、通称を伝之助・復一・勘介(勘助)といい、天民と号した。今日、漢方家で並河天民(1679~1718)の名を知る者は少なかろう。しかし、永富独嘯庵が『漫遊雑記』において、何度か其の名を挙げていることから、優れた医家であったのは間違いない。浅田流漢...
赤沢一堂の墓~京都漢方史跡~
- 2015/01/12
- 13:55

赤沢一堂墓(安祥院/東山区五条通東大路東入遊行前町560)赤沢一堂(1796~1847)は讃岐に生まれ、名は一・万、字は太乙(太一)、通称を太一郎・多一郎といい、一堂・万庵と号した。京都に住し、詩を能くした。著書に、『傷寒論甘露味』『傷寒論狐白裘』『傷寒論醍醐味』『傷寒論脈説金不換』『辨古書医言』などがある。...
川越衡山の墓~京都漢方史跡~
- 2015/01/11
- 13:25

川越衡山墓(実報寺/東山区五条橋東6丁目588)旧延年寺墓地のある参道を清水寺とは逆の方向に少し下ると、日蓮宗の実報寺があり、同寺には中西深斎の高弟・川越衡山(1758~1828)の墓碑が現存している。衡山は、京都の儒医・関公善(1705~1763)の五男として宝暦8年に生まれ、名は正淑、字を君朋・大亮といい、衡山と号した。初め、中西深斎に古医方を学び、その嗣となったが、別れて自説を立て、多くの門弟を集めた。霊鑑公主に...
竹中南峰の墓~京都漢方史跡~
- 2015/01/10
- 13:41

竹中南峰墓(鳥辺山旧延年寺墓地/東山区五条橋東6丁目)竹中南峰(1766~1836)は紀伊田辺に生まれ、名は温、字は子良、通称は文卿、後に文輔と改め、南峰・済美堂・時為斎と号した。京に上って和田東郭の門に医を学び、池田瑞仙(1735~1816)に天然痘の治療法を学んで、のち東洞院錦小路に開業した。門下から箕作阮甫(1799~1863)が出た。南峰の「治癬一方」について、浅田宗伯は“此方ハ竹中文輔ノ家方ニテ、疥癬、痛甚キ者ヲ...
荻野元凱の墓~京都漢方史跡~
- 2015/01/09
- 18:50

荻野元凱墓(鳥辺山旧延年寺墓地/東山区五条橋東6丁目)荻野元凱(1737~1806)は、元文2年に加賀で生まれ、名は元凱、字は元原・子元、通称を左仲といい、台州・鳩峰と号した。奥村良竹に学んだ後、京都に出て研鑽を積む。長崎遊学の経験もあり、平賀源内と親しく交わったという。寛政6年(1794)皇子を診察して、典薬大允に任ぜられた。幕府から召されて医学館の教授となり、瘟疫論を講じたこともあるが、間もなく辞して帰京し、...
和田東郭の墓~京都漢方史跡~
- 2015/01/08
- 18:12

和田東郭墓(鳥辺山旧延年寺墓地/東山区五条橋東6丁目)折衷派として知られる和田東郭(1743~1803)は、寛保3年に摂津高槻で生まれ、名は璞、字を韋郷・泰純といい、東郭・含章斎と号した。父祗忠は高槻侯に仕えた瘍科の医官である。若くして大阪に出て、戸田旭山(1696~1769)の門に入り、のちに古方派の泰斗吉益東洞(1702~1773)に学んだ。しかし、『傷寒論』を金科玉条の如く扱う古方派の態度には疑問を抱き、自身が医療に...
山本亡羊の墓~京都漢方史跡~
- 2015/01/07
- 18:01

山本亡羊墓(宝塔寺/京都市伏見区深草宝塔寺山町32)宝塔寺の加藤謙斎墓所の近くには、本草学者として有名な山本亡羊(1778~1859)ら山本一族の墓所もある。亡羊は、安永7年に医師・山本封山(1741~1813)の男として京都で生まれ、名は世孺、字は仲直、通称を永吉といい、亡羊・読書室と号した。幼少より家学を受け、医業を営む。また、寛政6年(1794)小野蘭山(1729~1810)について本草学を修め、植物園を設けて有用植物を栽...
加藤謙斎の墓~京都漢方史跡~
- 2015/01/06
- 21:22

加藤謙斎墓(宝塔寺/京都市伏見区深草宝塔寺山町32)加藤謙斎(1670~1724)は、寛文9年に三河国宝飯西郡(現在の蒲郡)で生まれ、名は忠実、字は衛愚といい、謙斎・烏巣道人・衣舗先生・洛下隠士と号した。幼少より病弱多病であったのを名古屋玄医(1628~1696)の門人臨節子の治法により快癒を得たのが縁で其の門下となって医術を学ぶ。また、浅見絅斎(1652~1712)に儒学を、稲生若水(1655~1715)に本草学を、笠原雲渓に詩文...
広岡文台の墓~三重漢方史跡~
- 2015/01/05
- 22:34

広岡文台墓(九品寺/三重県伊賀市守田町1194)広岡文台(??~1810)は、伊賀上野の人。京都へ出て、赤松滄洲(1721~1801)に漢学と医術を学んだ。のち医を業としながら医学研究に励み、詩文を能くした。著書に『雑病考』『傷寒論註釈』がある。文台の門に学んだ人に、森鴎外の史伝小説で有名な北条霞亭(1780~1823)が居る。...
北尾春圃の墓~岐阜漢方史跡~
- 2015/01/04
- 23:49

北尾春圃墓(福源寺/岐阜県養老郡養老町室原614-4)脈診の達人であったとされる北尾春圃(1658~1741)は、万治元年に美濃国多芸郡室原村で生まれ、当壮庵・松隠の号を用いている。父玄甫(玄字からして曲直瀬流の医家らしい)より医術を学び、大垣藩(戸田侯)に仕えて医業を行った。正徳元年(1711)、第八回朝鮮通信使節に随行の医官奇斗文と全昌寺において問答し、これを『桑韓医談』と題して正徳3年に刊行、亨保4年(1719)に...
2015年を読む
- 2015/01/03
- 22:52

2015年の国内外の大勢について易筮で予測を試みる。①世界の大勢不穏な得卦である。雷火豊は、雑卦伝に「豊は故多きなり」とあって、様々な問題や支障のある意を含む。之卦の地水師は戦争の卦であり、何か戦争・紛争の類が勃発する可能性がある。雷火豊は勢いの強い卦である上、変爻が四つもあるので、劇的な展開を見せるかもしれない。また、変爻のある初爻から四爻までで互卦を作ると、本之卦の展開は風火家人之雷水解となり、安...
謹賀新年
- 2015/01/01
- 22:18

蒼流庵随想をご覧の皆様、新年明けましてオメデトウ御座います。2015年も皆様に楽しんで頂けるような記事を書いていきたいと思いますので、どうぞ本年も宜しくお願い致します。さて、自身の年筮は30日の易学大忘年会にて青木先生に立卦して頂きましたが、もう一度書いておきたいと思います。山水蒙の卦は、実占においては「暗い」「はっきりしない」など良くない意味を取ることもありますが、卦爻辞は「啓蒙」や「教育」についての...