有持桂里の墓~京都漢方史跡~
- 2015/01/29
- 18:12

有持桂里墓(称名寺/中京区裏寺町601)有持桂里(1758~1835)は、宝暦8年に阿波で生まれ、名は希藻、字は文磯、通称を常安といい、桂里・毓春園・浩斎と号した。安永5年(1776)上京、三角了敬(??~1824)に学び、3年で開業。文化9年(1812)知恩院門跡の侍医となり、翌年には法橋に任じられた。『方輿輗』の著者として有名である。御子孫はすでに京都には居られないらしいが、未だ御健在らしい。碑文は幕末の三筆の一人・貫名海...
芳村玄恂の墓~京都漢方史跡~
- 2015/01/28
- 18:52

芳村玄恂墓(西園寺/上京区寺町通鞍馬口下る高徳寺町358)芳村玄恂(1678~1757)は、延宝6年に生まれ、名は叟、字は如也、通称を玄恂といった。京都(一説に大和)の人で、代々医を業とする。14歳で伊藤仁斎に学び、医学を名古屋玄医に受けた。のち、梶井門跡道仁親王に召され、法橋となり、法眼に進んだ。延享2年(1745)親王に従駕して江戸に赴き、将軍に拝謁した。著書に『黄帝内経素問大伝』『傷寒論訓古』『難経而知』がある...
和久田叔虎の墓~京都漢方史跡~
- 2015/01/27
- 19:13

和久田叔虎墓(西園寺/上京区寺町通鞍馬口下る高徳寺町358)和久田叔虎(1768~1824)は、明和5年に生まれ、名は寅、字は子清・叔虎、通称を豹吉・要人といい、意仲と号した。寛政5年(1793)に浜松で稲葉文礼(??~1805)と出会い、文礼から腹診法を伝授される。寛政8年(1796)、皆川淇園に入門して漢学を学んだ。寛政10年(1798)、江戸に移住。文化6年(1809)、師文礼の著『腹証奇覧』中の誤りを正し、不足を補った『腹証奇覧...
名古屋玄医の墓~京都漢方史跡~
- 2015/01/26
- 18:21

名古屋玄医墓(浄福寺/上京区笹屋町2丁目)古方派の始祖・名古屋玄医(1628~1696)は、寛永5年に生まれ、名は玄医、字を富潤・閲甫といい、丹水・宜春庵・桐渓と号した。初め羽川宗純に経書を学び、のち医学を修める。『内経』『難経』はじめ多くの古医書を読破したが、もっとも強い影響を受けたのは、明の喩嘉言の著『傷寒尚論』であり、ここに道三流こそが医学であった時代、“張仲景ルネサンス”ともいうべき「古方」の萌芽があ...
杉山篤信の墓~京都漢方史跡~
- 2015/01/25
- 10:12

杉山篤信墓(光清寺/上京区七番町)杉山篤信(1794~1847)は、寛政6年に越前福城で生まれ、名は篤信・信、字は子良、通称を良蔵といい、予斎・日州・九龍と号した。はじめ青山氏であったが、文化2年(1805)に越前三国の医師杉山履信の養子となった。京都に出て皆川淇園に師事し、また医を小林常以に学ぶ。大聖寺宮に儒医として仕えた。天保7年(1836)典薬寮医師、従六位上、日向介。同9年、御医に抜擢された。著書に『経穴挙要...
野間玄琢の墓~京都漢方史跡~
- 2015/01/24
- 11:15

野間玄琢墓(北区大宮玄琢北東町)野間玄琢(1590~1645)は、天正18年に山城で生まれ、名は成岑、通称を玄琢といい、白雲老人・寿昌院と号した。曲直瀬玄朔に李朱医学を学び、慶長10年(1605)医学典籍の代講をした。岡本玄冶・山脇玄心・井上玄徹と共に、玄門(玄朔門下)四天王に数えられる。同15年に法橋、元和3年(1617)に法眼へ進み、同9年には法印に上った。また、元和元年、鷹ヶ峰に土地を拝領し、薬草園を造った。隣接し...
好まれた艮為山
- 2015/01/23
- 18:16

実占に得て愉快でない卦はいくつもあるが、一般に艮為山などもその一つではなかろうか。いわゆる四大難卦(屯・水・蹇・困)ほどの著しい凶意を見る訳ではないが、卦辞には元亨利貞の一つもないし、爻辞もパッとしないものが並んでいるようだ。爻辞で吉兆を見ることが出来るのは、上爻の辞くらいのものだが、これとて山の頂上に止まった状態で、それ以上の発展性を持つものではない。そもそも、実占で艮為山を得ることの大半は、進...
後藤艮山の墓~京都漢方史跡~
- 2015/01/22
- 18:45

後藤艮山墓(上品蓮台寺/北区紫野十二坊町33-1)後藤艮山(1659~1733)は、万治2年に江戸常盤橋辺(東京都千代田区)で生まれ、名は達、字は有成、通称を左一郎といい、艮山・養庵と号した。はじめ、儒学を林鳳岡に学び、医学を牧村卜寿に学んだ。貞享2年(1685)京都に出て、独力で古医方を学んで医家としての研鑽を積む。名古屋玄医に入門を乞うも、謝金の少ないことを理由に門前払いされた為、発奮して独力で古医方を学んだエピ...
斎宮静斎の墓~京都漢方史跡~
- 2015/01/21
- 18:52

斎宮静斎墓(等持院/北区等持院北町63)斎宮静斎(1729~1778)は、享保14年に安芸で生まれ、名は必簡、字は大礼・叔子、通称を少助・五右衛門といい、静斎と号した。農家の出であるが、学を好んで、服部南郭に徂徠学を学ぶ。京都で講説する傍ら、医を業とした。和田東郭も一時期その門に学んでいる。安永2年(1773)伊予松山藩に招かれ、『尚書説命篇』を講じた。諸侯でその講説を聴く者が多く、有栖川宮より「文憲先生」の諡号を...
香川修庵の墓~京都漢方史跡~
- 2015/01/20
- 18:25

香川修庵墓(二尊院/右京区嵯峨二尊院門前長神町27)香川修庵(1683~1755)は、天和3年に播州姫路で生まれ、名は修徳、字を太冲といい、修庵・秀庵・一本堂と号した。元禄13年(1700)に上京し、伊藤仁斎に儒学を、後藤艮山に古医方を学ぶ。儒医の典型であり、「儒と医の本はひとつである」として“儒医一本説”を唱えた。いわゆる古方派である為、張仲景の医学を尊んだのは言うまでもないが、黄帝内経等の古医書を邪説として徹底的...
松岡恕庵の墓~京都漢方史跡~
- 2015/01/19
- 18:05

松岡恕庵墓(妙心寺光国院/右京区花園寺ノ中町2)松岡恕庵(1668~1746)は、寛文8年に京都で生まれ、名は玄達、字は成章、通称を恕庵といい、怡顔斎・苟完居・埴鈴・真鈴潮翁と号した。山崎闇斎および伊藤仁斎から儒学を、稲生若水から本草学を、浅井周伯(1643~1705)から医学を学ぶ。町医を業とする一方、儒学を講じたが、本草学の講筵に多くの聴講者が集まり、門下から小野蘭山や浅井図南らを輩出した。享保6年(1721)幕命に...
稲生若水の墓~京都漢方史跡~
- 2015/01/18
- 12:05

稲生若水墓(迎称寺/左京区浄土寺真如町22)松原一閑斎の墓所がある迎称寺には、我が国本草学の始祖・稲生若水(1655~1715)も眠っている。若水は、明暦元年に山城淀藩江戸藩邸に生まれ、名は宣義、字は彰信、通称を正助といい、若水・白雲道人と号した。儒を父と木下順庵に、本草を大阪の福山徳潤に学び、本草学を志す。延宝年間に主家の除封により流浪し、京都に移住した。元禄6年(1693)加賀前田侯に儒者として仕え、金沢と京...
松原一閑斎の墓~京都漢方史跡~
- 2015/01/17
- 11:14

松原一閑斎墓(迎称寺/左京区浄土寺真如町22)松原一閑斎(1689~1765)は、長門萩藩士松原惣右衛門の末男として元禄2年に生まれ、名は維岳・圭介、字は慶輔、通称を才二郎といい、一閑斎と号した。主家を去って京都に移り、並河天民に学ぶ。最近、一閑斎の評価は高まって来ており、従来の「名古屋玄医→後藤艮山→山脇東洋」という古方派の流れよりも、「並河天民→松原一閑斎→吉益東洞」の流れのほうが『傷寒論』発掘の流れとして明...
橘南谿の墓~京都漢方史跡~
- 2015/01/16
- 18:14

橘南谿墓(金戒光明寺/左京区黒谷町121)橘南谿(1753~1805)は、宝暦3年に伊勢久居藩士宮川保長の五男として生まれ、名は春暉、字は恵風、通称を東市といい、南谿・梅華仙史と号した。後に称した「橘」は妻の姓である。久居藩儒佐野酉山(1740~1814)に学び、明和8年(1771)京都に出て儒者を志したが、生計のため医の道を選び、独学で香川修庵・吉益東洞の医書を読み、安永2年(1773)大阪に移って、修庵の養嗣子南洋(1714~1...
中神琴渓の墓~京都漢方史跡~
- 2015/01/15
- 19:30

中神琴渓墓(光雲寺/左京区南禅寺北ノ坊町59)門弟三千人ともいわれ、“近江扁鵲”と呼ばれた中神琴渓(1744~1835)は、延享元年に近江国南山田村で生まれ、名は孚、字は以隣、通称を右内といい、琴渓・生生堂と号した。大津の医家中神氏の養嗣子となって医業を継いだ。30余歳の時、六角重任の『古方便覧』を読んで深く感動し、以後吉益東洞に傾倒していく。ただし、これは私淑であって、東洞の直接の門人ではないようだ。大津では...