賀川南龍の墓~大阪漢方史跡~
- 2015/02/13
- 18:53

賀川南龍墓(龍海寺/大阪市北区同心1丁目3−1)賀川南龍(1781~1838)は、天明元年に備中倉敷で生まれ、名は惇徳、字は子允、通称を秀哲といい、南龍と号した。初め本多氏であったが、幼くして父母を失い、諸国をめぐった後、大阪に来て産科医の賀川有章(有章は、玄悦の嫡孫に当たり、京都から大阪に来て産科を開業し大いにはやっていた)に入門、養子となって大阪賀川家の二世となった。南龍は、婦人の生殖器の解剖に関心を持ち...
柘植葛城の墓~大阪漢方史跡~
- 2015/02/12
- 18:17

柘植葛城墓(阿弥陀寺/柏原市国分本町7丁目6−11)柘植葛城(1804~1874)は、文化元年に河内国国分村で生まれ、名は常煕、字は国績、通称を卓馬といい、葛城と号した。文政2年(1819)上京して頼山陽(1780~1832)に入門、山陽門下四天王の一人に数えられた。同10年、山陽の紹介により小石元瑞(1784~1849)に医を学ぶ。同12年、帰郷して医業に専念した。大和高取藩医として招かれ、藩主に時局についてしばしば進言した。また、...
三浦蘭阪の墓~大阪漢方史跡~
- 2015/02/11
- 18:49

三浦蘭阪墓(牧野墓地/枚方市牧野)三浦蘭阪(1765~1843)は、明和2年に山城国大山崎で生まれ、名は義徳、字は季行・子行、通称を玄純といい、蘭阪・出雲行者・南行存庵・川内古雲行・恬嚢館・酔古堂と号した。初め松田氏であったが、坂村の医師三浦懐仙の女婿となって三浦姓を名乗った。医を京都の御典医・佐渡法眼に学び、本草学を鈴木蘭園(1741~1790)・小野蘭山(1729~1810)に受けた。著書に『衍義傷寒論』『傷寒論逸』『...
賀川玄悦の墓~京都漢方史跡~
- 2015/02/10
- 18:30

中央:賀川玄悦墓(玉樹寺/下京区中堂寺西寺町17)畑黄山の墓所がある中堂寺の南側には、賀川玄悦(1700~1777)が眠る玉樹寺がある。我が国の近代産科学の始祖ともいうべき玄悦は、元禄13年に江州彦根で生まれ、名は玄悦・光森、字を子玄といった。若き日より鍼を中心に医術を学び、京都に出て医家としての経験を積む。玄悦による産科分野の独創的発見は数多いが、最も重要なものは正常胎位の発見である。今から考えれば信じがたい...
畑黄山の墓~京都漢方史跡~
- 2015/02/09
- 20:51

左:畑黄山墓・右:畑恒山墓(中堂寺/下京区松原通大宮西二丁目南側)畑黄山(1721~1804)は、享保6年に京都で生まれ、名は惟和・維和、字は厚生、通称を柳安といい、黄山・医学院と号した。安藤碩翁の男であるが、医師畑柳景の娘婿となり、畑氏の嗣となる。延享2年(1745)法橋、宝暦7年(1757)法眼、天明7年(1787)法印に叙され、尚薬奉御となり、医学院の号を受けた。また、明和4年(1767)には、後桜町天皇(1740~1813)の侍...
茅原虚斎の墓~京都漢方史跡~
- 2015/02/08
- 15:45

茅原虚斎墓(安養寺/中京区新京極蛸薬師下東側511)茅原虚斎(1774~1840)は、安永3年に長門美禰郡大嶺で生まれ、名は定・元常(玄常)・玄定、字は叔同、通称を丈助といい、虚斎・長南・茅窓と号した。文化4年(1807)以降、京都釜座丸太町南に住して医を開業し、のち下立売油小路東へ転居。和漢の学に通じ、本草に詳しく、また、文事も好んだ。著書に、『金匱抄義』『傷寒論大全』『日本名医伝』などがある。...
富野義胤の墓~京都漢方史跡~
- 2015/02/07
- 17:35

常楽寺合祀供養塔(常楽寺/中京区裏寺町通蛸薬師下る裏寺町598)富野義胤(1733~1791)は、享保18年に越前敦賀に生まれ、名は義胤、字を左沖・仲達といい、鳴謙と号した。京都に出て香川修庵に学び、一時養子となるが、師の没後、旧姓に復した。著書に『傷寒論集解』がある。最近まで墓碑があったようであるが、常楽寺が墓地の整理を行った際に処分されてしまったらしく、現在は写真の宝篋印塔に合祀されている。「良空鳴謙仲道居...