『大坂名医伝』中野操著
- 2015/02/28
- 09:07

『大坂名医伝』中野操著(思文閣出版/1983年刊)生まれ育った土地に対しては、自然と郷土愛というのが芽生えてくる。医史学の分野に足を踏み入れて、最初に気になりだしたのは、やはり郷土の医家先哲であった。しかし、大阪という土地は東京に次ぐ大都市のように思われているけれど、日本の中心地であったのは、わずかに豊臣秀吉の三日天下くらいのもので(遡れば大化の改新が行われた難波宮時代があるが、古すぎてどうにもピンと...
掃苔法秘伝
- 2015/02/27
- 19:39
秘伝などという大仰なものではないけれど、何年もハカマイルを積み重ねると、自ずと会得される心得のようなものがある。ハカマイラーに与ふる書を与えだだけでも親切この上ないという気もするが、老婆心から更なる親切を重ねてみたい。まず、目指す墓碑をググってみよう。誰かが墓碑の情報をアップしてくれていれば、話は早い(しかし、自ら探すという醍醐味は皆無)。ネット情報を頼りに行く場合は、墓碑の写真の背景情報が重要に...
ハカマイラーに与ふる書
- 2015/02/26
- 18:47

『京の医史跡探訪』杉立義一著(思文閣出版/1984年刊)同著者の書物としては以前『医心方の伝来』を紹介したことがある。書名通り、京都の医史跡が写真付きで懇切丁寧に紹介されており、読んでいるだけでも楽しい本だ。最近は入手困難らしく、古書価も上がっているらしい。『京都名家墳墓録』寺田貞次著(山本文華堂/1925年刊)京都における掃苔には欠かせない本だ。随分古い本なので、写真が掲載されていないのは残念であるが、碑...
先哲顕彰の現代的意義
- 2015/02/25
- 20:02
支那制度史の大家・宮崎市定先生(1901~1995)が中央公論に発表された「イラン学の祖 榊亮三郎博士」(昭和56年3月)という短文は、“前人の優れた業績を顕彰することは、下手な論文を書くよりも、ずっと世の為になることは確かである。”という一文で終わっている。しかしながら、昨今の漢方界を見渡すに、先哲の顕彰よりも下手な論文の方がどれほど多いことか知れない。その先哲の顕彰さえ、これまで誰かが発表して来たものをな...
『黄帝医籍研究』真柳誠著
- 2015/02/24
- 20:34

『黄帝医籍研究』真柳誠著(汲古書院 /2014年刊)昨秋、真柳誠先生の待望の単著『黄帝医籍研究』が上梓された。真柳先生は、茨城大学で教鞭を執っておられ、医史学の大家として国外でも著名な方である。医史学者としては、蒼流庵主人の最も尊敬する先生と言って良い。先生は数多くの優れた業績を上げておられ、そのマエストロであらせられることは衆目の一致するところであるが、不思議なことに単行本としては『中国本草図録』の訳...
伝統医療文化国際シンポジウム 2015
- 2015/02/23
- 18:45

奈良場先生から御案内のメールを頂き、京都大学で開催される国際シンポジウムに参加して来た。現在、京都大学総合博物館では“医は意なり”と題した企画展を開催中で、まずはそちらを見に行く。同博物館は昨年11月にも鉱物展を見に出向いたが、常設展を覗いてみると結構内容が変わっていて驚いた。企画展はそれほど伝統医学に重きを置いている訳ではないようで、私には少々物足りなかったが、一般の方にはこれくらいがちょうど良い内...
続・霊園の憂鬱
- 2015/02/22
- 09:08

見つかりそうで、見つからぬのが、会津の児島宗説。児島宗説(傷寒論経伝晰義)福島県会津若松市北青木13-33 善龍寺2016年10月と2017年5月の二度、現地調査を試みたが、未だ発見できずに居る。『会津人物事典 (文人編)』には墓碑の写真も紹介されており、善龍寺提供の墓域図には、歴代住職墓地の三段上に児島家の墓所があると記載されているが、どうもそれらしい墓碑が見当たらない。墓域図にある児島家と宗説とは児島違いで無関...
漢方史跡巡りを終えて
- 2015/02/21
- 18:35
2009年の3月に始めた易儒と漢方家の掃苔記録も、これでそのほとんどを紹介し終えた。短時日の間によくぞこれだけ訪れたものだと今更ながらに驚くばかりだ。ブログのカテゴリーを見るに、易学ハカマイルのほうがやや件数が多いのは自分としては少し意外で、漢方家の方が少し多いような気がしていた。面子を見てみると、易儒の大半は特別な漢学的素養のある人以外は名前すら知らないような学者がほとんどであるが、漢方家の方はそれ...
村井琴山の墓~熊本漢方史跡~
- 2015/02/20
- 18:55

村井琴山墓(来迎院墓地/熊本市西区春日6丁目8−8)村井琴山(1733~1815)は、享保18年に肥後藩の医学校再春館教授村井見朴(1702~1760)の長男として生まれ、名は杶、字は大年、通称を椿寿といい、琴山・琴斎・原診館・六清真人・清福道人・子琴と号した。父見朴の没後、京都に出て、はじめ山脇東洋に学び、のち吉益東洞の門人となった。数か月指導を受けた後、一旦郷里に帰るが、明和6年(1769)に再び上京し、東洞の下で学んで...
小原桃洞の墓~和歌山漢方史跡~
- 2015/02/19
- 18:55

小原桃洞墓(大恩寺/和歌山市吹上5丁目1−5)小原桃洞(1746~1825)は、延享3年に和歌山で生まれ、名は良貴、通称を源三郎といい、桃洞と号した。京都で吉益東洞に学び、本草学を小野蘭山に受けた。和歌山藩医となり、桃洞の学殖を愛した藩主徳川治宝(1771~1853)によって、寛政4年(1792)には、医学館本草局の主任に任ぜられた。また、幕命を受けた師蘭山に随行し、また、自ら幕命を受けて各地に採集旅行を行った。天保10年(1...
田中華城の墓~大阪漢方史跡~
- 2015/02/18
- 18:57

田中華城墓(大阪市営南霊園/阿倍野区阿倍野筋4丁目-19-115)田中金峰の父・華城(1826~1880)は、文政9年に生まれ、名は顕美、字は君業、通称を内記といい、華城と号した。藤沢東畡(1795~1865)に漢学を、備前の難波抱節(1859~1791)に医を学ぶ。北久宝寺町に住んで医を業とし、詩文を能くした。『精本傷寒論』などの著作があるという。...
北山寿安の墓~大阪漢方史跡~
- 2015/02/17
- 18:25

北山不動(太平寺/大阪市天王寺区夕陽丘町1-1)今は太平寺の風吹不動となって民衆の信仰を集める北山寿安(??~1701)は、名を道長、通称を寿安といい、友松子・仁寿庵・逃禅堂と号した。明末の国乱を避けて長崎に亡命して来た商人馬栄宇と長崎丸山の遊女との間に混血児として生まれ、医学を隠元禅師の弟子の帰化僧戴曼公(1596~1671)や小倉の原長庵(岡本玄冶の高弟)に学んで後、名を北山寿安と改め、大坂船場の南久太郎町で開...
岡本為竹の墓~大阪漢方史跡~
- 2015/02/16
- 18:10

左:岡本蘭斎墓 右:岡本尚古斎墓 (齢延寺/大阪市天王寺区生玉町13−31)近世医人中最大のブックメーカーとして知られ、近松門左衛門の実弟でもある岡本一抱(1654~1716)の墓は、大阪の浄瑠璃研究家・木谷蓬吟氏(1877~1950)が戦前に調査を行って六条堀川西の日蓮宗本圀寺にあることを突き止められたが、現在は無縁処理されて墓域には見あたらない。しかし、大阪市天王寺区の生魂山齢延寺には、一抱の養子となって岡本家を継...
田中金峰の墓~大阪漢方史跡~
- 2015/02/15
- 15:01

田中金峰墓(妙寿寺/大阪市中央区中寺1丁目1)田中金峰(1844~1862)は、弘化元年に儒医・田中華城の男として大阪北久宝寺町で生まれ、名は楽美、字は君安、通称を右馬三郎といい、金峰と号した。早熟の天才で、14歳の時には、すでに父にかわって門生に『左伝』の講義を行うほどであったという。また、貧民施療を志とした心やさしい人物であったらしい。詩文にも優れたが、才能を惜しまれつつ、結核により19歳で夭折した。没後に...
古林見宜の墓~大阪漢方史跡~
- 2015/02/14
- 13:41

古林見宜墓(禅林寺/大阪市中央区中寺2丁目4−3)大坂における名医の草分け的存在である古林見宜(1579~1657)は、天正7年に播磨国飾磨で生まれ、名ははじめ道芥のち正温、通称を見宜といい、桂庵・寿仙坊と号した。祖父・父共に名医として知られ、幼時よりその薫陶を受けた。京都に上って建仁寺に寓居し、曲直瀬正純(1559~1605)を師として金元医学を修めた。その後、同門の学友・堀杏庵と嵯峨に学舎を開いた。教育に当たっては...