平野革谿の墓~東京漢方史跡~
- 2015/07/31
- 19:44

平野革谿墓(天妙国寺/品川区南品川2-8-23)おけらの会でお世話になっている秩父の大友一夫先生に教えられて、先生が中神琴渓や永田徳本と並んで私淑されている平野革谿の墓所を品川に尋ねた。平野革谿(??~1867)は、名は重誠、字は子公、通称を元良・元亮・玄良といい、革谿・革谿道人・択善居・一夢道人指漏漁者・桜寧・桜寧室主人・真観舎・無適道人・黙翁と号した。医を多紀元簡に学び、江戸両国薬研掘で開業した。著書に『...
目黒道琢の墓~東京漢方史跡~
- 2015/07/30
- 18:43

目黒道琢墓(月桂寺/東京都新宿区河田町2-5)目黒道琢(1739~1798)は、元文4年に岩代会津で生まれ、名は尚忠、字を恕公・道琢といい、飯溪と号した。明和2年(1765)、多紀元孝の医学館創立に際して助教となり、寛政10年に病没するまで講義を続けた。著書に『餐英館療治雑話』『驪家医言』『傷寒論集解』などがある。正面以外の三面には、多紀元簡撰の碑文がびっしり刻まれている。古い墓碑の割には剥落が見られないので、一度修...
感謝の20000ヒット!
- 2015/07/26
- 12:46

先ほど我が蒼流庵随想のアクセスカウンターが、とうとう20000ヒットを記録した(キリ番自爆)。ロボットやクローラーは除外する設定にしているので、この数字は取りあえず実数と見てよいだろう。この一年ほどは漢方ネタが更新の中心だったが、未だに易学関連のワード検索で訪問される方のほうが圧倒的に多いようで、有益な記事を書けていないのか少々不安を感じないでもないが、ともあれコンスタントに訪問して下さる読者様の存在...
座光寺南屏の墓~山梨漢方史跡~
- 2015/07/23
- 18:55

座光寺南屏墓(宝寿院・山梨県西八代郡市川三郷町市川大門5711)以前、続・霊園の憂鬱の中で、気になる未参の漢方家として山梨の座光寺南屏を挙げたが、長野へ行ったついでに少し無理をして山梨まで足を延ばしてみた。座光寺南屏(1735~1818)は、享保20年に甲斐で生まれ、本姓は源、名は為祥、字は履吉、通称を利吉郎・三蔵といい、南屏・龍園・鬼石子・東海紫府道人・南屏潜夫・確乎斎・桐花書屋と号した。五味釜川(1718~1754...
和田啓十郎の墓~長野漢方史跡~
- 2015/07/20
- 22:30

和田啓十郎墓(和田家一族専用墓地/長野市松代町牧島680)『医界之鉄椎』の著者・和田啓十郎(1872~1916)については、以前日本橋に建てられた漢方医学復興之地と題する顕彰碑を御紹介したことがある。和田啓十郎は、明治5年に長野県松代町に生まれ、号は手真、堂号を治本堂といった。なかなか治らなかった姉の病が漢方医の治療により快癒を得たことが将来漢方医を志すきっかけになったという。松代藩に仕えた家系であったが、明...
浅田宗伯先生之碑~長野漢方史跡~
- 2015/07/16
- 18:56

浅田宗伯先生之碑今年2015年は浅田宗伯の生誕200年に当たっている。宗伯の故郷はかつての筑摩郡栗林村で、現在の長野県松本市島立である。昭和16年、宗伯を顕彰して「浅田宗伯先生之碑」と題した顕彰碑が建立された。撰文は、当時の順天堂佐倉病院長・佐藤恒二(1878~1952)による。顕彰碑横の案内板クリックすると拡大顕彰碑のある「松本市島立3298-4」は番地からの検索ではヒットしないようなので、地図を載せておくことにする...
広瀬先生の美学
- 2015/07/13
- 18:45
広瀬先生は戦後絶えて久しい第一級の風流人で、見えないようなところの隅々にまで、独自の美学が光っている、という話を聞いたのは、確か紀藤先生の御子息からだったと思う。何気ない供花にも、花言葉など必ず何らかの根拠があって選ばれていたらしい。私のように横着な者は見えないところなど即手抜きの対象であるが、先生は細部まで納得しないと気が済まない性格らしかった。私は最晩年の先生を少し窺い見る程度に過ぎなかったが...
頑なだった広瀬先生
- 2015/07/10
- 19:17
広瀬先生は、とてつもなく意固地で頑なところがあって、それが先生を孤高たらしめていたとも言える。御自身の死期を悟った紀藤元之介先生は、『実占研究』の発行を広瀬先生に託したいと思われていたというが、孤高の達人はそれを頑なに拒絶、350号を数えた『実占研究』も紀藤先生の逝去と共に廃刊を余儀なくされたという。先生は酒を一滴も呑まれなかった上、肉も召し上がらず、食生活は準ベジタリアンであったから(魚は少量食べ...
追悼・広瀬宏道先生
- 2015/07/07
- 21:16

孤高の易学家・広瀬宏道先生が5月に91歳で長逝されていたことを知ったのはつい先週のことで、御遺族から届いた一枚の御葉書によってであった。私は先生の最晩年に僅かに接した程度に過ぎず、其の山の如き学徳を語るのは僭越至極であるのだが、平成の御代まで存命であった易学家で、学術両面で最も高い境地を其の身に体現されたのが広瀬先生であったことを、私は疑わない。先生の訃報に接して以来、久しぶりに「易経闚観」「六十四...
合水堂の碑(華岡流外科顕彰碑)
- 2015/07/01
- 18:37

合水堂の碑(華岡流外科顕彰碑)華岡青洲の末弟に鹿城という人が居て、大阪で医業を行って緒方洪庵と親しく交流したことは以前ご紹介した通りだが、来る2016年は鹿城が春林軒の分塾たる合水堂を開塾してちょうど200年に当たる。華岡流の本家本元はやはり青洲であるが、華岡流医師のおよそ半数は合水堂で学んだらしく、立地条件もあるにせよ、合水堂が如何に隆盛を誇ったかが窺われよう。残念ながら、鹿城は兄の陰に隠れて今日その...