『二十二史箚記』趙翼著
- 2015/10/30
- 18:23

二十四史を読みこなすだけの学力も根気も持ち合わせていないが、ちょっと通ぶりたいという衒学志向のご仁にお勧めしたいのが、清の趙翼(1727~1812)の手になる『二十二史箚記』だ。これは、『史記』から『明史』に至る正史を考証した書物で、専門家なら必ず座右に置いている筈である。タイトルには「二十二史」とあるが、実際には二十四史すべてを扱っており、これは著者の時代に『新唐書』『新五代史』の二書がまだ正史に加えら...
模板:二十四史
- 2015/10/28
- 18:36

司馬遷の『史記』から張廷玉の『明史』に至る中国の歴史書は二十四史と称され、これらは中国の歴史を扱う場合の基本文献となるが、一般にこの分野の学問に手を出した者は、『史記』『漢書』『後漢書』『三国志』の四史だけは必ず読まなければならないものとされていて、それから『北史』『南史』『新唐書』の順に読んで行くものだそうだ。もっとも、文学的な程度は一様ではなく、大半は歴史研究を目的としない一般の読書人には甚だ...
『アジアの帝王たち』植村清二著
- 2015/10/26
- 18:25

『アジアの帝王たち』植村清二著(1956年初版)植村清二先生の本で私が一番好きなのは、『万里の長城』と同じく中公文庫に入っている『アジアの帝王たち』だ。本書はアジア史上に君臨した帝王九人の簡単な伝記を収載するが、始皇帝や康熙帝など中国の帝王は内五名で、残りはアショカ王やチムールなど南アジアや西アジアを統治した人たちである。高度な文学性を以て叙述するスタイルの植村先生にとっては、こうした英雄伝の類こそ最...
『万里の長城』植村清二著
- 2015/10/24
- 18:24

『万里の長城』植村清二著(中公文庫版)先に、中国史の優れた入門書として、宮崎市定先生の著作の一つを挙げたが、今日ご紹介するのも亦同分野の書物である。本当のところを言うと、どちらを先に紹介したものか迷ったが、最近文庫に入ったということもあって宮崎中国史を先に取り上げたに過ぎない。本書は、終戦の前年に創元選書の一冊として刊行されたもので、1979年に中公文庫に入り、2003年には新装版として再び読書人の前に姿...
願行寺
- 2015/10/22
- 18:38

願行寺(奈良県吉野郡下市町下市2952)庵主は、毎年夏から秋にかけて奈良の天川村へよく出かける。世界遺産になって以後、高野山はどんどん俗に流れて、かつての聖地の雰囲気は随分薄まってしまったが、天川村にはまだまだ昔の行場の面影が残っているので気に入っているだ。庵主の住まいから行く場合は、必ず吉野川を越えたところにある下市という集落を通るのだが、この集落にある浄土真宗本願寺派の至心山願行寺は宮崎市定先生に...
宮崎市定先生の墓
- 2015/10/21
- 18:39

京都宮崎家之墓(長野県飯山市静間)七月の或る日の早朝、車を飛ばして長野県は飯山市の静間へ向かった。目的は宮崎市定先生の墓参である。庵主は支那学の専門家ではないから、それほど多くの文献に眼を通している訳ではないが、先生の著作の大半は読破しているので、かかる分野では最も影響を受けていると言って良いかもしれない。そんな訳で、先生の墓参はかねてからの悲願であったが、近代人の墓所というのは江戸期の学者などと...
『隋の煬帝』宮崎市定著
- 2015/10/18
- 18:16

『隋の煬帝』宮崎市定著(1964年初版)宮崎市定先生は、専門家のみならず、一般の読書人の間でも人気があったから、文庫で読める著作も多く、主要な著作はそのほとんどが文庫化されていると言って良い(もっとも現在は品切れのものの方が多い)。一般には、海外でも訳出された『科挙』(1946)や清代の知られざる名君に光を当てた『雍正帝』(1950)、雄大な通史である『アジア史概説』(1947~48)などの人気が高いようだが、個人...
『中国史』宮崎市定著
- 2015/10/15
- 18:13

『中国史』宮崎市定著(岩波書店/1983年刊)易学や漢方といった学術は、言うまでもなく中国に誕生してかの地で発展して来たものであるが、今日これらの学術を勉強している人々のほとんどが中国史の初歩的な知識さえ欠いているのは驚くべきことである。易など当たればそれで良いのだとか、漢方は臨床の技術だから患者が治ればそれで良いのだとか、勿論それ自体は間違っていないし、当たらない易や患者がさっぱり治らない漢方など有...
北陸吉益家墓所
- 2015/10/12
- 18:38

北陸吉益家墓所(野田山墓地)9月末、新井白蛾生誕祭のため金沢の野田山に出向いた際、偶然にも北陸吉益家の墓所を見つけた。金沢にあることだけは聞き知っていたが、さして気にも留めていなかったこともあって、野田山にあるということを知らずにいたから、意表を突かれて随分驚いた。吉益東洞の嗣子・南涯は、有名な天明8年(1788)の大火で被災し、大阪は船場伏見堺筋の仮住居に移って医業を行い、43歳のとき、腹違いの弟である...
ブログ開設二周年
- 2015/10/09
- 21:07
今日で我が蒼流庵随想を開設してちょうど2年の歳月が流れた。ここまで続けてこられたのも、飽きることなく定期的にアクセスして下さる読者諸賢の御蔭である。勿論、不快なこともないではなく、時折寄せられるキ印丸出しのコメントにはほとほと困惑させられる(返信せず削除)。しかし、それ以上に嬉しいことも多い。今年の奈良場先生のNHK講座では拙ブログでの案内をご覧になった読者様が数名参加してくださったそうで、庵主も参加...
新井白石の『鬼神論』
- 2015/10/08
- 19:40

新井白石の著述と言えば、『折たく柴の記』や『西洋紀聞』『読史余論』などが有名で、これらは全て岩波文庫に収められているが、面白さという点では『鬼神論』が一番かもしれない。“鬼神”というのは中国でいう霊のことで、“鬼”と聞いて日本人の頭を過ぎる節分の二本角ちゃんとは関係ない。『鬼神論』は朱子の合理主義的な鬼神解釈を白石流に補強・敷衍したもので、数々の怪異について徹底して合理的な解釈を施そうと努めている。あ...
新井白石の墓
- 2015/10/06
- 18:35

新井白石肖像(栗原信充画)新井白蛾の“白”は、一般に新井白石にあやかって採られたものと言われている。これに関しては以前記事を書いたのでそちらをご覧頂きたい。新井白石(1657~1725)は、明暦3年に上総久留里藩士・新井正済(1597~1678)の男として生まれ、名は初め璵、のち君美、字を在中・済美、通称を与五郎・勘解由といい、白石・紫陽・天爵堂などの号を用いた。初め久留里藩主・土屋利直(1607~1675)に仕えるが、利...
古易館跡を訪ねて
- 2015/10/04
- 20:05

白蛾が紺屋町に開塾した頃は、荻生徂徠没して十数年、その謦咳に接した門人達が大いに活躍して江戸では古文辞学が一世を風靡していた。若き日の白蛾は之に抗すべからざる事を悟って儒業を捨て、放浪の旅に出る。白蛾が放浪の旅に出て以後、京都に定住するまでの十数年間、具体的に何処で何をしていたのか、はっきりしたことは判らない。ただ、白蛾が妻に迎えたのは河内国若江の一向宗信願寺(現在若江に信願寺という名の寺院は見当...
新井白蛾と紺屋町
- 2015/10/03
- 19:08

新井白蛾の父、祐勝は浅見絅斎の門に学んだ人であったから、白蛾は日本儒学史の系譜上では崎門学派に属し、父より家学を受けた後、14歳で菅野兼山の門に入った。白蛾の著『易学類篇』では「余、年二十二、東都に於いて儒者と称し、講習を以て業と為す」と自序し、東条琴台の『先哲叢談後編』には「白蛾、年二十二、帷ヲ神田紺屋街ニ下シ講習ヲ以テ業ト為ス」とあって、白蛾は22歳の時、神田の紺屋町で塾を開き儒者として独り立ちし...
新井白蛾先生生誕300年祭③~宝勝寺~
- 2015/10/02
- 18:36

宝勝寺(石川県金沢市寺町5丁目5番地76号)野田山を出て、バスで広小路まで下り、予約しておいたイタリアンのお店ニタラートさんで昼食を済ませた後、徒歩で白蛾の菩提寺である太白山宝勝寺へ向かう。目的は白蛾の位牌である。事前に連絡しておいたので、到着時には位牌もすでに準備してくださっていた。宝勝寺は、加賀藩の第三代藩主・前田利常公の建立で、藩に仕える名武門が主な御檀家という格式の高い寺院であるが、近年は荒廃...