易学家の饗宴
- 2016/03/28
- 19:39

伊勢藤(新宿区神楽坂4丁目2)月半ばに所用にて東京入りした。最近は大抵一泊二日、下手をすると日帰りの時もあったが、今回は何年かぶりの二泊三日だ。初日は、横浜から江ノ島へ向かい、昼には鎌倉、午後から東京に入り、初めて金町に降り立った。西へ引き返そうとしたら、線路内に傘が落っこちてたとかで、電車が20分近く止まってしまった。大阪より本数が多いということも理由の一つだろうが、東京は実によく電車が止まる。夜は...
宇井伯寿の墓
- 2016/03/25
- 21:46

宇井伯寿墓(多磨霊園)一頃、なぜだか不思議と気になって仏教学者の宇井伯寿(1882~1963)を追いかけていた時期がある。なにゆえそこまで気になっていたのか、今となっては自分にもよく分らぬが、初めて写真でご尊顔を拝した際、禅僧らしからぬモヤっとした内功の凄みに驚いたことだけははっきり覚えている。味わい深いこの表情三河生まれの人で、12歳のとき曹洞宗東漸寺で出家したが、余程頭の良い人だったと見えて、お寺に学費...
『日本佛教語辞典』岩本裕著
- 2016/03/22
- 21:10

『日本佛教語辞典』岩本裕著(平凡社/1988年刊)庵主は一応仏教徒の端くれであるが、大多数の日本人がそうであるように、文字通りの端くれの一人であって、葬式仏教徒の一員に過ぎない。一般の葬式仏教徒よりは幾らかの知識は持ち合わせているかも知れぬが、それも甚だ御粗末なものに過ぎず、仏教学の断片らしきものが脳内を無規範に浮遊している程度である。しかし、中国的な学問に深入りするようになると、儒・仏・道いずれの理...
河口慧海旧跡散策
- 2016/03/19
- 17:53

河口慧海顕彰立像(南海本線七道駅前)南海本線の七道駅近くには、河口慧海ゆかりの史跡がいくつかある。上掲は、駅の西側ロータリーに建てられたブロンズ製の慧海像(1983年制作)。河口慧海生家の跡(堺区北旅籠町西3丁1番)住宅に挟まれて窮屈そうに立つ生家跡を示す石標と説明版清学院(堺区北旅籠町西1丁3)慧海の学んだ清学院は、江戸後期から明治初期にかけて「清光堂」の名で寺子屋としても使われていたが、本来は修験道...
河口慧海の墓
- 2016/03/16
- 18:48

河口慧海墓(青山霊園/1種ロ 15号 5側)堺市出身の有名人と言えば、何といっても千利休(1522~1591)と与謝野晶子(1878~1942)がまず頭に浮かぶが、文化人枠に限ればこの二人に続くのは、河口慧海(1866~1945)辺りではなかろうか(更に続けるとしたら私は河盛好蔵を挙げる)。河口慧海は、梵語・チベット語の仏典を求めて、当時鎖国状態にあったチベットに日本人として最初に潜入した人で、主著『チベット旅行記』は現在も講...
『東洋学の系譜』江上波夫編著
- 2016/03/13
- 18:26

『東洋学の系譜』江上波夫編著(大修館書店)大修館書店から江上波夫編著として出ている『東洋学の系譜』は、正続合わせて我が国の代表的な東洋学者48人の簡単な評伝を収め、日本の東洋学の歩みを知る上でも中々に便利な一冊(正確には二冊)となっている。もともとは『月刊しにか』における連載記事の書籍化で、92年に出た第1集では主として我が国東洋学の草創期にその礎を築いた先駆的学者を収め、94年の第2集では大正から昭和に...
龍光寺
- 2016/03/10
- 19:24

佐賀で生まれた玄光は、幼少の頃から長崎の寺院で育ち、戦乱を避けて渡来した中国人の僧超元(1602~1662)の居た海雲山晧臺寺に入り、超元の帰国と共に同寺を出て以後全国を放浪しているが、その晩年を大阪で過ごし、示寂したのは大東市から生駒へ抜ける峠にあった龍光寺だという。龍光寺(大阪府大東市大字龍間1452) 経寺山龍光寺は敏達天皇(在位572~585)開基の古刹であるというが、度重なる戦火で荒廃し、正保二年(1645)...
日本漢学史上における僧玄光
- 2016/03/07
- 18:09

私が江戸初期に出た玄光(1630~1698)という学僧の存在を知ったのは、神田喜一郎先生の「日本漢学史上における僧玄光」という小篇(『神田喜一郎全集Ⅱ』所収)によってであった。この神田先生の小篇によって光を当てられるまで、玄光の存在は我が国の漢学史上においても仏教史上においても、全く忘れられた存在であったと言って良い。ちょうど師の内藤湖南が富永仲基を発見したようなものである。もっとも、仲基の場合は、それ以...
神田香巌髯塚
- 2016/03/04
- 18:46

神田香巌髯塚(大徳寺玉林院/京都市北区紫野大徳寺町74)神田喜一郎は、町衆・本両替商として繁栄した江戸時代より続く名家・神田家の出身で、神田家はまた「蔵書の家」としても知られた。祖父の神田久信(1854~1918)は、名を信醇、字を子醇、号を香巌といい、詩を江馬天江(1825~1901)に、書を貫名海屋(1778~1863)の門人・上竹潭(1825~1895)に学んだ人で、漢籍・書画・金石文などの鑑識に優れ、京都帝室博物館の鑑別員...
『敦煌学五十年』神田喜一郎著
- 2016/03/01
- 19:32

『敦煌学五十年』神田喜一郎著(筑摩叢書版/1970年刊)書誌学者で保守派の論客でもあった谷沢永一(1929~2011)が、生前何度も取り上げて激賞した本に、神田喜一郎(1897~1984)の『敦煌学五十年』(1960年初版)がある。著者は、内藤湖南門下の俊才で、筑摩書房の『内藤湖南全集』には湖南の嗣子乾吉と共にその編纂に当たった。本書は随筆集であるが、書名にある敦煌文書を扱った章は全体の三割程度で、その他は書評や著者が師...