芥川丹邱~京都易儒墓参録~
- 2016/09/29
- 21:29

芥川丹邱墓芥川丹邱(1710~1785)は、宝永七年に生まれ、名は煥、字は彦章、通称を清太郎・采女といい、丹邱・養軒・薔薇館と号した。初め大町敦素(1659~1729)に、のち宇野明霞(1698~1745)・伊藤東涯に、江戸で服部南郭に学び、宇野士朗(1701~1732)・田中大観(1710~1735)らと初めて京都に徂徠学を提唱したが、のち陽明学に転じた。易書に『古易鑑』『古易鍵』『周易象解』『春秋卜筮解』がある。丹邱の墓碑は京都の大...
上月専庵~大阪易儒墓参録~
- 2016/09/26
- 18:00

上月専庵墓(専念寺/大阪市中央区上本町西4-1-15)上月専庵(1704~1752)は、宝永元年に生まれ、名は信敬、通称を丹蔵といい、専庵・鶴洲・瓊斎と号した。山本復斎(1680~1730)に医学・神道を学び、医を業とする。傍ら経史に通じ、詩賦を能くして、寛延年中(1748-51)には韓客と唱和した。『医易脈学』などの著述がある。漢方家として紹介すべきかと思ったが、今回は易儒の括りとした。...
小島省斎~兵庫易儒墓参録~
- 2016/09/24
- 11:26

小島省斎墓(妙法寺/兵庫県丹波市809)“丹波聖人”小島省斎(1804~1884)は、文化元年に丹波国氷上郡柏原(現在の兵庫県丹波市柏原)で生まれ、名は慎、字は思之、通称を友吉・四郎兵衛・忠太といい、省斎と号した。七歳で郷医・長谷部信斎に句読を受け、のち京都で猪飼敬所に従学。帰郷後に家塾を開くが、弘化二年(1845)、柏原藩主・織田信貞(1803~1847)に招請され、月次講書を行う。嘉永三年(1850)、学問所新館創設に伴い...
金子霜山~広島易儒墓参録~
- 2016/09/22
- 10:45

金子霜山墓(聖光寺/広島市東区山根町29-1)金子霜山(1789~1865)は、寛政元年に広島藩学問所教授・金子華山(1762~1816)の男として生まれ、名は忠順・中導・済民、字は伯成、通称を徳之助といい、勉廬・霜山・八霜山人と号した。家学を受け、学問所句読師・教授となる。のち、歩行組次席となり、藩政改革に尽力した。長沼流の兵学を修めた。易書に、『易学啓蒙纂要』『易本義纂要』『読周易本義私記』がある。墓所は、尾長山...
乾長孝~鳥取易儒墓参録~
- 2016/09/20
- 19:11

乾長孝墓(乾氏墓地/鳥取県八頭郡八頭町坂田)乾長孝(1741~1798)は、寛保元年に岡山藩家老・池田俊清(1707~1765)の次男として生まれ、名は長孝、幼名は八次郎、字は子肥、通称を甲斐・平右衛門といった。鳥取藩家老・乾豊長の養子となって、宝暦八年(1758)に乾の家督を嗣ぎ、家老職を務めた。好学博識で、武芸に通じた。易書に、『繋辞不言解』がある。乾氏の菩提寺は船岡の西来寺であったが、同寺は明治の初めに廃寺にな...
伊藤宜堂~鳥取易儒墓参録~
- 2016/09/18
- 18:09

伊藤宜堂墓(東祥寺/鳥取県日野郡江府町江尾493-2)伊藤宜堂(1792~1874)は、寛政四年に伯耆国江尾村で生まれ、名は雅言、字を俊蔵といい、宜堂・不如及斎と号した。文化二年(1805)、因幡鳥取藩家老の荒尾家に、同五年、京都の正親町三条家に仕えた。同十年、江戸に出て朝川善庵・佐藤一斎に学び、島田元旦(1778~1840)・菊池五山(1769~1849)らと交わり、文政八年(1825)に帰郷。天保六年(1835)、出雲塩冶村に有隣塾を...
桃白鹿~島根易儒墓参録~
- 2016/09/16
- 18:53

桃白鹿墓(天倫寺/島根県松江市堂形町589)桃白鹿(1722~1801)は、享保七年に医師・坂根幸悦の長男として生まれ、名は盛、幼名は友之助・友太郎・硯次郎、字は茂功・子深、通称を源蔵・大蔵・題蔵といい、百川・白鹿と号した。浜田は専称寺の漂竜和尚に習字・素読を学び、享保二十年、江戸に遊学。翌年、暦算家・桃東園(1687~1760)に其の学才を認められて養子となった。寛保元年(1741)、林門に入り、榴岡(1681~1758)・鳳...
生田永貞~島根易儒墓参録~
- 2016/09/14
- 18:23

生田永貞碑(天倫寺/島根県松江市堂形町589)生田永貞(1771~1843)は、明和八年に生田永税の男として生まれ、名は永貞、幼名は美穂吉、字は无咎、通称を十兵衛といい、好好と号した。文化七年(1810)、父の跡をついで松江藩に出仕し、天保九年(1838)に致仕。仏学・漢学・兵学などに通じ、門人に教授した。また、漢詩・和歌・狂歌を能くした。易書に、『易翼略解』『太極説』がある。墓域には生田家の墓碑があるが、昭和三十年...
小篠敏~島根易儒墓参録~
- 2016/09/12
- 18:06

小篠敏墓(観音寺/島根県浜田市真光町63)小篠敏(1728~1801)は、享保十三年に三河西尾藩士・田淵玄統の次男として生まれ、名は敏・御野、字は徳卿、通称を十助・道冲・大記といい、東海・轡竜・篠舎と号した。京都で、山脇東洋、稲田大道に学ぶ。宝暦二年(1752)、浜田藩医・小篠秀哲の養子となり、明和二年(1765)に養家を嗣ぎ、三河岡崎藩主・松平康福(1719~1789)の侍医・儒臣となって、のち藩主の転封に従って浜田に移...
山口剛斎~島根易儒墓参録~
- 2016/09/10
- 11:40

山口剛斎墓(永太院/島根県鹿足郡津和野町後田106)山口剛斎(1734~1801)は、享保十九年に大阪で生まれ、名は純実・景徳、字は正懋・剛翁、通称を剛三郎といい、剛斎・梅盧・西月・一徳斎・一徳・顔其斎と号した。学を兄重明に受け、禅・神道を学んだ後、飯岡義斎(1717~1789)に入門。久米訂斎と親しく交わり、山崎闇斎の学を修めた。越後流兵法の奥義も究め、国典も能くし、大阪で私塾を開いて教育した。天明五年(1758)、石...
谷秦山~高知易儒墓参録~
- 2016/09/08
- 18:22

谷秦山墓(高知県香美市土佐山田町前山)谷秦山(1663~1718)は、寛文三年に土佐長岡郡岡豊八幡宮の神職の家系に生まれ、名は重遠、通称を小三次・丹三郎・桜井清八といい、秦山と号した。延宝七年(1679)、上京し、浅見絅斎・山崎闇斎に学ぶ。元禄七年(1694)、江戸の渋川春海に書簡を送って、天文暦術・神道について学び、また神道を中川経晃(1650~1724)に、亀卜法を度会延経(1657~1714)に、暦道を土御門泰福(1655~17...
巌村南里~香川易儒墓参録~
- 2016/09/06
- 18:15

巌村南里墓(法音寺/香川県丸亀市南条町4)易儒墓参録の連載をしていたのは、振り返ればもう二年以上前のことで、それ以降は散発的に易学関連の史跡の記事を上げる位であったが、この二年間も地道な調査は継続していた。ある程度数も溜まってきたので、まずは西日本から、順に御紹介して行きたい。巌村南里(1784~1842)は、天明四年に讃岐丸亀藩士巌村親房の男として生まれ、名は秩、字は大猷、通称を半右衛門といい、南里・辣庵...
熊沢蕃山史跡あれこれ
- 2016/09/04
- 08:03

方谷の草廬が熊沢蕃山宅跡の傍に建てられたのは、方谷が蕃山に心酔していた為であった。熊沢蕃山陶像宅跡近くにある写真の碑は備前焼のレリーフを嵌め込んだもので、平成三年に建碑された。息遊軒蹟址碑明暦三年(1657年)、蕃山は当時の知行地である寺口村と呼ばれていた村を蕃山と改め、四十三歳で村を離れるまでの四年間、ここで同志十一人と共に暮らした。宅跡碑は、文政元年(1818)に建てられたもの。熊沢蕃山の両親の墓蕃山...
山田方谷史跡あれこれ
- 2016/09/03
- 19:46

高梁市には、高梁川に沿って、山田方谷関連の史跡が点在しており、墓所のある方谷園を除けば、あとは電車でも容易に巡ることが可能である。方谷山田先生碑(八重籬神社/岡山県高梁市内山下120)180号線沿いの八重籬神社には、三島中洲撰文の方谷山田先生墓碣銘があり、明治12年建立の大変立派なものである。同神社内には、方谷の七絶詩を刻んだ詩碑や門人の顕彰碑など石碑が随分多い。牛麓舎跡(高梁市御前町42)県立高梁高等学...
山田方谷の墓
- 2016/09/01
- 21:34

山田方谷墓(方谷園/岡山県高梁市中井町西方)最近、山田方谷のブームらしい。が、庵主は流行に便乗するような人間ではないので、あくまでも易儒としてご紹介したいと思っている。山田方谷(1805~1877)は、文化二年に備中松山藩領西方村(現在の岡山県高梁市中井町西方)に生まれ、名は球、幼名は阿璘、字は琳卿、通称を安五郎といい、方谷と号した。幼時、備中新見藩儒・丸川松隠(1758~1831)に学ぶ。文政八年(1825)、松山...