渡辺蒙庵~静岡易儒墓参録~
- 2016/10/16
- 18:36

渡辺蒙庵墓(本称寺/静岡県浜松市中区元魚町88)渡辺蒙庵(1687~1775)は、貞享四年に医師・渡辺久耀の男として生まれ、名は操、字を友節といい、蒙庵・竹亭と号した。幼くして父に死別し、上方に遊学、小川朔庵に医学を、中野撝謙(1667~1720)に漢学を学ぶ。二十歳頃帰郷し、医を業とする傍ら、撝謙門下の同門・太宰春台と交遊し、古文辞学の影響を受けた。享保十年(1725)、浜松藩に出仕、同十四年、藩主・松平資訓(1700~1...
吉見幸和~愛知易儒墓参録~
- 2016/10/15
- 16:23

吉見幸和墓(吉見山墓地/名古屋市千種区茶が坂1丁目)吉見幸和(1673~1761)は、寛文十三年に吉見恒幸(1641~1697)の三男として生まれ、名は幸和、幼名は定之助、字は子礼、通称を定右衛門といい、恭軒・風水翁・嚢玄子・竜洞亭・風水山人と号した。元禄三年(1690)、三輪勝弥と称し、尾張名古屋藩主・徳川綱誠(1652~1699)に近侍したが、同七年、兄の病により吉見家に復し、同九年、家督を嗣いで名古屋東照宮祠官となり、...
若林強斎~滋賀易儒墓参録~
- 2016/10/14
- 18:28

若林強斎墓(五本桜墓地/滋賀県大津市小関町)若林強斎(1679~1732)は、鍼医・若林正印の男として延宝七年に生まれ、名は正義・進居、通称を新七(進七)といい、強斎・寛斎・守中翁・自牧・望楠軒と号した。元禄十五年(1702)頃、浅見絅斎に学び、宝永六年(1709)頃、近江園城寺の別院である微妙寺の坊に転居した。正徳元年(1712)に絅斎が没すると、絅斎の家塾は甥の勝太郎に委ねられ、強斎は其の後見人となったが、翌年に...
北沢遜斎~京都易儒墓参録~
- 2016/10/11
- 18:59

北沢遜斎墓(鳥辺山旧延年寺墓地/東山区五条橋東6丁目)北沢遜斎(1706~1788)は、宝永三年に生まれ、名は就将、通称を新吾といい、遜斎と号した。三宅尚斎に学ぶ。火災によって典籍その他をことごとく失い、失意のうちに死去。易書に、『易学啓蒙講義』がある。...
ブログ開設三周年
- 2016/10/09
- 18:54
“石の上にも三年”というが、今日で我が蒼流庵随想を開設してから、三年の歳月が流れた。怠惰な身の上を振り返って、三年も飽きずによく続けてこられたものだと自分でも驚いているが、これも多くの読者諸氏の存在があったればこそである。有り難いことだ。城繁幸の『若者はなぜ3年で辞めるのか?』がベストセラーとなったのが、ちょうど10年前のことだが(もうそんなに経つんやな~)、もはや若者でもなく、幸いネタ不足に悩んでいる...
松岡仲良~京都易儒墓参録~
- 2016/10/08
- 10:58

松岡雄淵墓(吉田神葬墓地/京都市左京区吉田下大路町)松岡仲良(1701~1783)は、元禄十四年に、尾張熱田社の祠官の家に生まれ、名は尾張雄・文雄・定直・雄淵、字は仲良、通称を多助・下総といい、玄斎・振武翁・渾成翁・悔斎・蓼蔵舎・蓼倉精舎・環洲・修軒と号した。十代で吉見幸和に神道を学び、のち京都で若林強斎・玉木正英(1671~1736)・鴨祐之(1659~1723)に師事したが、享保十八年(1733)に師の玉木正英を批判して...
近衛家熙~京都易儒墓参録~
- 2016/10/05
- 18:42

近衛家熙墓近衛家熙(1667~1736)は、関白太政大臣・近衞基熙(1648~1722)の男として寛文七年に生まれ、名は家熙、幼名を増君といい、吾楽軒・昭々堂・虚舟子・墨如・青々林・物外楼主人と号した。延宝元年(1673)に元服し、従五位上に叙せられ、同時に昇殿を許される。延宝四年(1676)、従三位に叙せられ、貞享三年(1686)、二十歳で内大臣となる。元禄六年(1693)に右大臣、宝永元年(1704)に左大臣。宝永四年(1707)、...
村瀬栲亭~京都易儒墓参録~
- 2016/10/02
- 10:35

村瀬栲亭墓村瀬栲亭(1744~1818)は、延享元年に医師・村瀬周節(1695~1771)の長男として生まれ、名は之煕、字は君績、通称を掃部・嘉右衛門といい、栲亭・小華陽・神州・土岐中書と号した。初め堀元昌(1725~1762)に医を、武田梅竜(1716~1766)に儒を学び、明和三年(1766)梅竜に代わって妙法院宮真仁法親王(1768~1805)の侍講を務めた。天明三年(1783)、出羽久保田藩に迎えられ、藩政にも参与するが、寛政三年(1791...