村上龍眠の墓~鳥取漢方史跡~
- 2016/10/31
- 18:37

村上家之墓(完龍院/鳥取市馬場町6)村上龍眠(1797~1835)は、寛政九年に中江蓮翁の次男として生まれ、名は淵、字は龍眠、春亭・晋亭と称し、厚生館と号した。幼時、伊良子大洲(1763~1829)に学び、医を鳥取藩三大医家の一人村上潜龍(1770~1824)に学ぶ。文化十四年(1817)、京都に出て宇津木昆台に古医方を学び、帰国後、土佐孝思に蘭方を学んだ。文政五年(1822)、潜龍の養子となり、同七年、家督を嗣ぐ。鳥取藩主池田斉...
中山城山の墓~香川漢方史跡~
- 2016/10/30
- 09:43

中山城山墓(遍照院/香川県坂出市高屋町624)中山城山(1763~1837)は、宝暦十三年に医師・中山玄柳の男として生まれ、名は鷹、字は伯鷹、通称を塵といい、城山・滕鷹と号した。幼時から藤川東園(1739~1806)に師事して古文辞学を学び、徂徠学を修める。寛政十一年(1799)、招聘されて高松城中に移り、後進を教導した。門下より、藤沢東畡(1795~1865)や相馬九方(1801~1879)を輩出し、碑文は東畡の手に成る。著書には、『...
白井重行~山形易儒墓参録~
- 2016/10/29
- 10:01

白井重行墓(井岡寺/山形県鶴岡市井岡甲199)白井重行(1753~1812)は、庄内藩士・白井久右衛門茂貞の長男として宝暦三年に生まれ、名は重行、字は子徳、通称を矢太夫・弥太由といい、東月と号した。初め、加賀山桃李(1722~1787)のもとで儒学を修め、安永九年(1780)江戸に遊学するが、天明二年(1782)帰藩し、同四年、家督を嗣ぐ。寛政五年(1793)郡代となり、農政改革を行って徳政を敷き、同十二年、鳥海山麓に新田を開拓...
山崎忠央~福島易儒墓参録~
- 2016/10/28
- 18:49

山崎忠央墓(大窪山墓地/会津若松市門田町大字黒岩字大窪山)山崎忠央(1660~1734)は、阿波徳島藩士・山崎勝太輔尊秀の次男として万治三年に生まれ、名は泉・定規・忠央、幼名は門平、字は子列、通称を勝蔵といい、松心と号した。江戸に出て後藤松軒(1631~1717)に師事し、朱子学を学ぶ。貞享元年(1684)、師の推薦で会津藩侍講となり、元禄十五年(1702)に大目付を兼務、正徳二年(1712)には奉行を兼務した。享保四年、猪...
宮本篁村~茨城易儒墓参録~
- 2016/10/27
- 18:24

宮本篁村墓(浄国寺/茨城県潮来市潮来1008)宮本篁村(1788~1838)は、天明八年に常陸行方郡潮来村年寄役・宮本平右衛門高重の長男として生まれ、名は鉉、字は士鉉・伯鼎、通称を鼎吉といい、篁村と号した。二十歳の頃、弟の茶村(1793~1862)と共に江戸に出て、山本北山に入門し、折衷学を学ぶ。のち諸国を遊歴し、文政(1818-30)頃、陸前仙台に到り、僧宗阿(1771~1848)・鈴木松嵐・新井藤里らと交遊。仙台櫓町に私塾を開き...
鈴木石橋~栃木易儒墓参録~
- 2016/10/26
- 18:58

鈴木石橋墓(雲龍寺/栃木県鹿沼市寺町1351)鈴木石橋(1754~1815)は、宝暦四年に下野鹿沼の富裕な農商家に生まれ、名は之徳・至徳、字は沢民、通称を四郎兵衛といい、石橋・麗沢之舎・閑翁と号した。江戸に出て、安永六年(1777)関松窓(1727~1801)の紹介により林家塾に入門、湯島聖堂仰高門日講の講授を務める。帰郷後、麗沢之舎を開いて門弟を教導、のち宇都宮藩に召されて学政に参与。貧民の子供の養育を援助し、また、飢...
新居守村~群馬易儒墓参録~
- 2016/10/25
- 18:32

新居守村墓(群馬県富岡市中高瀬)新居守村(1808~1893)は、上州甘楽郡高瀬村の豪農の家に生まれ、通称を又左衛門・又三郎といい、守村と号した。学に志し、本居宣長らの著書を精読し、天保十年(1839)に東条義門(1786~1843)の門に入る。語学・音韻学に通じ、和歌も能くした。明治初年より群馬県内の神社史の調査研究に当たり、同二年、大学中助教となった。易書に、『易故新』『易占問答』『復古八卦方位辨』がある。...
杉山竹外~群馬易儒墓参録~
- 2016/10/24
- 18:12

杉山竹外墓(善長寺/群馬県館林市当郷町1975)杉山竹外(1811~1877)は、文化八年に杉山維敬の四男として生まれ、名は魁、字は春郷・大魁、通称を四郎といい、竹外と号した。代々、山形藩主秋元氏に仕え、山形に住す。父の没後、十四歳で江戸に出て、古畑玉函(1778~1848)に師事し、のち昌平黌に学ぶ。嘉永六年(1853)、ペリーの浦賀来航に際して房総の巡視に従い、翌七年、露国の使節が下田に到る際も赴いた。明治二年、上州...
萩原緑野~東京易儒墓参録~
- 2016/10/23
- 12:36

萩原緑野(明福寺/港区三田4丁目4-14)萩原緑野(1796~1854)は、寛政八年に萩原大麓(1752~1811)の次男として生まれ、名は承、字は公寵、通称を鳳二郎といい、緑野・静軒・敬斎・石桂堂・一枝庵と号した。家学を承け、二十八歳で分家。江戸日本橋葺屋町に住んで講説を業とした。詩文に長じ、門人も多く、牧野忠恭(1824~1878)・安藤信正(1819~1871)・松平直諒(1817~1861)らも其の門に学んだ。易書に、『読易課鈔』『読...
古市南軒~東京易儒墓参録~
- 2016/10/22
- 09:43

古市家墓(大行寺/東京都台東区谷中6-1-13)古市南軒(1649~1722)は、慶安二年に上野前橋藩士・古市玄政の男として江戸で生まれ、名は剛・興孝・孝慈、字は子強、通称を東之進といい、南軒・芳林園・春光・春光堂と号した。父子二代に亘って儒学と医学を修め、前橋藩主酒井氏に仕えた。貞享元年(1684)、藩主・酒井忠挙(1648~1720)の命により『前橋風土記』を編纂した。陰陽道・占卜にも通じ、『卜筮指南大全』などの著述が...
井上頼圀~東京易儒墓参録~
- 2016/10/21
- 18:03

井上頼圀墓(青山霊園立山墓地1-イ-3-1)井上頼圀(1839~1914)は、医師・井上頼正(1809~1879)の男として天保十年に生まれ、名は頼圀、幼名は次郎、字は伯随・厚載、通称を大学・肥後・鉄直といい、一賀・英玉翁・呉竹亭・神習舎と号した。相川景見(1811~1875)に歌学を学び、文久元年(1861)に平田鉄胤(1799~1880)に入門、元治元年(1864)には権田直助につき古医道を学んだ。慶応三年(1867)、京都で討幕の密議を与り...
秋山景山~新潟易儒墓参録~
- 2016/10/20
- 18:16

秋山景山墓(本妙寺/新潟県長岡市日赤町3-1-36)秋山景山(1758~1839)は、代々、越後長岡藩儒を務める家に生まれ、名は朋信、字は子交、通称を多門太といい、景山と号し、致仕の後は酔翁と号した。江戸で服部白賁(1714~1767)に師事したが、師説を墨守せず、実践達用の学を要とした。文政五年(1822)に藩校・崇徳館が設立されると教授となり、のち都講。藩主に重用され、致仕後、再び都講を務めた。易書に、『易解』がある。...
原松洲~新潟易儒墓参録~
- 2016/10/19
- 18:49

原松洲墓(極楽寺/新潟県柏崎市若葉町2−1)原松洲(1776~1829)は、槍術家・原源蔵の男として安永五年に生まれ、名は簡、字は南史、通称を清介といい、松洲・優所・別所・十六堂・翠光軒と号した。父に槍術を学び、跡を嗣いで丹波福知山藩主朽木家に仕え、江戸藩邸に勤仕。のち浪人となり、上州高崎を経て、越後柏崎で講説を業とした。史学に通じ、晩年、柏崎が伊勢桑名藩領となると、藩士に取り立てられた。易書に『周易筆記』が...
東方祖山~福井易儒墓参録~
- 2016/10/18
- 18:01

祖山東方君墓碣銘(実性院/石川県加賀市大聖寺下屋敷町29)東方祖山(1748~1813)は、寛延元年に生まれ、名は由賢・望・屯、字は満卿、通称を宇左衛門といい、祖山と号した。江戸の山本北山に入門し、明和七年(1770)に家督を嗣ぐ。前田利道(1733~1781)以後五代の藩主に仕え、近習頭・表用人・持弓頭・旗本奉行・馬廻頭等を歴任、藩士の教育に当たり、文化九年に致仕。易書に、『易説瓣蒙』がある。...
清原宣賢~福井易儒墓参録~
- 2016/10/17
- 18:50

清原宣賢墓(禅林寺/福井県福井市徳尾町22-12)清原宣賢(1475~1550)は、文明七年に卜部兼倶(1435~1511)の三男として生まれ、名は宣賢、号を環翠軒といった。清原宗賢(1431~1503)の養嗣となる。享禄二年(1529)剃髪。明経の博士家である清原家の当主として、拠るべき証本およびその注解書の作成、研究書の書写、講義などに業績を遺した。その学問分野は、経学を中心とする漢学のみならず、和学・神道にも及び、辞書編纂・...