小島宝素の墓~東京漢方史跡~
- 2016/11/15
- 18:05

小島家墓(貞林院瑞正寺/葛飾区東金町5-46-5)小島宝素(1797~1848)は、寛政九年に幕府御番医師・小島根一の男として江戸下谷で生まれ、名は和戚・尚質、字は学古、通称を喜之助・喜庵・春庵といい、宝素・宝素堂と号した。なお、母親は前野良沢(1723~1803)の娘である。文化十四年(1817)、医学館薬調合役取締、のち侍医となる。天保七年(1836)、法眼。同十三年、京都仁和寺宝庫蔵『新修本草』の復元を試みた。庵主が、『...
田中適所の墓~福井漢方史跡~
- 2016/11/14
- 18:06

田中適所の墓(龍泉寺/福井県越前市深草1-10-3)田中適所(1725~1801)は、享保十年に田中希尹(1675~1750)の三男として生まれ、名は允孚、字を信蔵といい、適所・必大と号した。奥村良竹に学ぶ傍ら京都に遊学。宝暦五年(1755)、越前府中大門町に開業、安永四年(1775)には京都に居を移して診療し、また医・経書を講じた。阿波徳島藩儒医・越前鯖江藩儒を経て、寛政元年(1789)、福井に移住した。書にも通じ、篆書を能くし...
村瀬豆洲の墓~愛知漢方史跡~
- 2016/11/13
- 10:15

村瀬豆洲墓(平和公園光勝院墓地/名古屋市千種区平和公園2丁目)明治漢方三大家の一人・村瀬豆洲(1830~1905)は、天保元年に生まれ、本氏は堀田、名は皓、幼名は彦次郎、字を白石といい、豆洲と号した。十五歳で、村瀬立斎(1792~1851)に従って医を学び、立斎の没後は其の養子・益斎(1810~1854)に学んで、二十四歳で開業した。翌年に益斎が死去したが、嗣子が幼かった為、益斎の二女を娶って、村瀬氏を嗣いだ。慶応二年(18...
丹羽嘯堂の墓~愛知漢方史跡~
- 2016/11/12
- 15:51

丹羽嘯堂墓(盛巌寺/愛知県西尾市馬場町70)丹羽嘯堂(1741~1793)は、寛保元年に越前で生まれ、名は文虎、字は子牙、通称を徳太郎・左門といい、嘯堂と号した。父の丹羽仙庵(1698~1760)は、医を業とし、婦人科を得意としたが、易学にも通じていたという。二十五歳のとき大阪に出て、朝鮮通信使の迎接役となった羽前山形藩主・松平乗祐(1715~1769)に求められて、通信使の宿舎の典翰となった。のち乗祐は転封して三河西尾に...
渡辺弘堂の墓~京都漢方史跡~
- 2016/11/11
- 18:00

渡辺弘堂墓(清閑寺/東山区清閑寺山ノ内町11−1)渡辺弘堂(1689~1760)は、元禄二年に儒医・渡辺謙斎の男として生まれ、名は毅・孝恭・存泰、通称を新蔵といい、弘堂・葭谷と号した。元禄十年(1697)、伊藤仁斎の門に入り、仁斎・東涯父子に従学した。のち並河天民に従い、仁斎の説を批判し、自説を主張した。天民の遺稿を編纂し、天民墓表の撰文も弘堂の手に成る。著書に、『傷寒論辨義』など。墓所は、はじめ後藤艮山の墓所が...
味岡三伯の墓~京都漢方史跡~
- 2016/11/10
- 18:54

左:二代目味岡三伯墓/右:三代目味岡三伯墓味岡三伯といえば、一般には岡本一抱(1654~1716)の師として其の名が記憶されているものと思うが、本居宣長もまた其の系譜に連なる医家で、三伯→小川朔庵→堀元厚→本居宣長というから、宣長は三伯の曾孫弟子ということになる訳だ。最近では、「儒道統之図」という新資料の発見により、長らく謎とされて来た安藤昌益の師が三伯であることも明らかとなった。しかし、一抱の師である三伯と...
松下見林の墓~京都漢方史跡~
- 2016/11/09
- 18:48

松下見林墓(大雄寺/京都市上京区七本松通下立売上ル三番町284)松下見林(1637~1703)は、寛永十四年に医師・松下見朴の男として生まれ、名は慶・慶摂・秀明、字は諸生、通称を見林といい、西峰山人と号した。父に句読を受け、慶安二年(1649)京都に出て、古林見宜に医を学ぶ。見宜没後、21歳の時堀川に開業して、傍ら儒学・国典・歴史を研究し、講説した。元禄三年(1690)、讃岐高松藩主・松平頼常(1652~1704/光圀の長男)...
中山玄亨の墓~京都漢方史跡~
- 2016/11/08
- 18:01

中山元亨墓(福勝寺/京都市上京区出水通千本西入七番町323−1)中山玄亨(1697~1779)は、元禄十年に生まれ、名は初め治貞、のち永貞、幼名は久米助、字は季通、通称を玄亨といい、蘭渚・随心院と号した。佐渡中原の人。代々、医者の家柄で、享保二年(1717)京都に上り、医術を小川朔庵・松岡玄達らに学び、帰国して子弟に教授したが、同九年、国を去り京都で医業を開く。元文二年(1737)、官医・今大路親顕(1675~1737)の門人...
馬淵嵐山の墓~京都漢方史跡~
- 2016/11/07
- 18:34

馬淵嵐山墓(仏陀寺/京都市上京区鶴山町12)馬淵嵐山(1753~1836)は、宝暦三年に生まれ、名は会通、字は仲観、通称を舎人・小助といい、嵐山・唐棣園と号した。儒を斎静斎に学ぶ。初め中立売室町東に、のち寺町阿弥陀寺境池に住し、儒医として知られた。著書に、『傷寒論斎子伝』『傷寒論文訣』『周易玩辞』『周易詁』など。寺田貞次(1883~1946)の『京都名家墳墓録』では、墓所を天寧寺としており、同書を引く『国書人名辞典...
柚木太淳の墓~京都漢方史跡~
- 2016/11/06
- 18:06

柚木太淳墓(百萬遍知恩寺/京都市左京区田中門前町103)柚木太淳(1762~1803)は、宝暦十二年に代々近江で眼科医をしていた柚木家の男として生まれ、名は太淳、字を仲素・尭民といい、鶴橋と号した。江村北海(1713~1788)に経書を学び、家学を受けて京都で家業を継ぐ。さらに荻野元凱に内科を、賀川有斎(1733~1793)に産科を学んだ。山脇東洋の人体解剖に触発され、寛政九年(1797)自らも人体解剖を行い、我が国で初めて頭部...
高階枳園の墓~京都漢方史跡~
- 2016/11/05
- 14:06

高階枳園墓(百萬遍知恩寺/京都市左京区田中門前町103)高階枳園(1773~1843)は、高階経元の男として安永二年に生まれ、名は経宣、字を子順といい、枳園と号した。文化十四年(1817)に典薬大允となり、文政四年(1821)に安芸守。天保十一年(1840)、正四位下。福井榕亭(1753~1844)と並び称せられた。隠退して京都鷹ヶ峰に住す。著書に、『枳園合薬房方譜』『国字類聚略方譜』などがあり、本間棗軒も一時枳園に学んでいる。...
岡本玄冶の墓~京都漢方史跡~
- 2016/11/04
- 18:33

岡本玄冶墓(京都府京都市北区鷹峯千束町)曲直瀬流の実質上の継承者・岡本玄冶法印の関連史跡については、以前にも祥雲寺の墓所および日本橋人形町の玄冶店碑をご紹介しているが、今日取り上げるのは、最近発見された鷹峯の墓碑である。墓碑と言っても、実際に葬られたのは東京の祥雲寺であるから、これは恐らく参り墓の類であろう。建立者は玄冶の嗣子・玄琳(1617~1684)ではないかと推定されるが、定かではない。ともあれ、岡...
吉田宗恂の墓~京都漢方史跡~
- 2016/11/03
- 07:10

吉田宗恂墓(二尊院/右京区嵯峨二尊院門前長神町27)吉田宗恂(1558~1610)は、永禄元年に吉田宗桂(1500~1572)の次男(長男が大実業家・角倉了以)として生まれ、名は光政・宗恂、通称を孫次郎・意庵・意安といい、又玄子と号した。父の医業を継ぎ、初め豊臣秀吉・秀次に仕える。慶長五年(1600)、後陽成天皇(1571~1617)に調薬を献じて効を奏し、のち徳川家康に侍す。法眼・法印となる。運気・本草に精しく、漢学を藤原惺...
三宅董庵の墓~広島漢方史跡~
- 2016/11/02
- 18:50

三宅董庵墓所(禅林寺/広島市中区小町9-14)三宅董庵(1814~1859)は、文化十一年に安芸広島藩侍医・三宅西涯の次男として生まれ、名は春齢、幼名は富次郎、字は八千、通称を董庵といった。九歳で頼聿庵(1801~1856)に従学し、天保五年(1834)には筑前の亀井昭陽に入門、次いで豊後の広瀬旭荘の塾に入った。同七年、上京して賀川家に入門し、一年間産科を学んだ。嘉永二年(1849)、肥前長崎より帰郷する佐渡の長野秋穂から牛...
木村渫庵の墓~広島漢方史跡~
- 2016/11/01
- 18:42

木村渫庵墓(金龍寺/広島県府中市元町623)木村渫庵(1791~1837)は、寛政三年に木村周安の長男として生まれ、名は雅寿、字は鶴卿、通称を鶴太郎・考安といい、渫庵・楓窓と号した。十五歳で菅茶山(1748~1827)の門に入り、のち京都で畑柳泰(1765~1832)に学んで、頼山陽・柏木如亭(1763~1819)・武元登々庵(1767~1818)らと交遊。帰郷後、痘瘡大流行の際に貧富を問わぬ献身的治療を施し名声を博した。天保二年(1831)、...