杉田玄白の墓~医史跡番外編~
- 2016/11/30
- 18:20

杉田玄白墓(栄閑院/港区虎ノ門3-10-10)こちらも神谷町で誰かの墓碑(結局見つからなかったので今では誰だったか失念)を探索中に偶然通りかかって見つけたもの。杉田玄白(1733~1817)といえば、前野良沢(1723~1803)らと共に『ターヘル・アナトミア』を和訳し、安永三年(1774)に『解体新書』として刊行したことは、日本史の教科書にも載っているのであまりにも有名につき、蘭医に無知な私などのこれ以上の解説は無用であろ...
西洋医学所跡~医史跡番外編~
- 2016/11/29
- 18:55

西洋医学所跡(東京都台東区台東1-30)庵主は蘭医については全くといって良いほど興味がないので、掃苔に関しても緒方洪庵や坪井信道などの有名どころを何かのついでに廻った程度に過ぎず、蒼流庵随想では申し訳程度に触れたくらいだ。そこで今日も申し訳ついでに、秋葉原行のおまけとして訪れた西洋医学所の跡地をご紹介しておこうと思う。ここは、伊東玄朴らが設けた「種痘所」を前身とする幕府の医学機関で、初代頭取は大槻俊斎...
杉山和一本墓~医史跡番外編~
- 2016/11/28
- 20:16

杉山和一本墓(江の島)庵主は鍼灸医学にはそれほど関心がないので、あまりこの分野についての知識はないのだが、杉山和一には不思議と縁があるのか、関連史跡は墨田区の江島杉山神社から弥勒寺の墓所、意外に知られていない三重の頌徳碑に至るまで制覇している。そんな和一探訪の最後を飾ったのが、江ノ島にある本墓である。弥勒寺の五輪塔は大正年間に改葬された際、下から位牌と思われる木片が見つかったのみであるが、江ノ島の...
小野蘭山顕頌碑~医史跡番外編~
- 2016/11/27
- 19:40

小野蘭山顕頌碑(京都植物園内)『本草綱目啓蒙』で有名な小野蘭山については、以前の記事で東京にある墓碑をご紹介した。門人も多く、全国にわたって千人に達したというが、その学統から輩出した木村蒹葭堂や山本亡羊、伊藤圭介らについても、すでにその墓碑を紹介済みである。今日、ご紹介するのは、蘭山の没後二百年を記念して、京都植物園内に建碑された顕頌碑で、場所は園中心よりやや南東、大芝生地の東側である。...
白兎海岸~医史跡番外編~
- 2016/11/26
- 11:06

鳥取の白兎海岸といえば、神話「因幡の白うさぎ」の舞台として知られる景勝地であるが、我が国の医療発祥の地でもあり、今回は医史跡番外編の更に番外編として取り上げておくこととする。この神話は、ワニザメを騙して淤岐島から因幡に渡ろうとしたウサギが、騙されたことに気付いたワニザメに皮を剥かれて苦しんでいたところ、通りかかった大国主命に「真水で身体を洗い、ガマの穂にくるまっていなさい」と教えられて回復するとい...
呉秀三の墓~医史跡番外編~
- 2016/11/25
- 18:42

呉家累代墓(多磨霊園)日本医史学会は、言わずと知れた我が国医史学の中心であり、日本医学会の第一分科学会である。設立に当たっては、例によって富士川游が大きな役割を果たしているので、初代の御頭も当然富士川だろうと漠然と思っている人も少なくないらしいが、実際には初代理事長は呉秀三(1865~1932)で富士川は三代目を務めた。呉秀三の名は、医史学においては富士川游に押されがちなところがあるが、日本における精神病...
富士川游の墓~医史跡番外編~
- 2016/11/24
- 18:09

富士川游墓昭和十五年十一月六日、富士川游は鎌倉の別邸で世を去り、生家近くの富士川家墓所に葬られた。享年七十五。明治・大正・昭和を通じ、学界の重鎮として海外にまで其の名の轟いた生涯は、まさに我が国医史学確立の最大の功労者と呼ぶに相応しいものであろう。富士川家墓所...
富士川游先生誕生之地碑~医史跡番外編~
- 2016/11/23
- 18:28

長楽寺公園(広島市安佐南区長楽寺3-1)広島市安佐南区の長楽寺は、九〇五年に開かれたという真言宗の霊場で、戦国時代には武田氏や毛利氏の祈願所として繁栄したとされるが、一六〇一年、福島氏が広島城主の時、寺領を没収されて衰退し、廃寺となった現在は、後に建立された観音堂が侘びしく残るのみで、現在は公園として利用されている。公園入り口には、「富士川游先生誕生之地」と刻まれた小さな碑があるが、実際の生家は碑よ...
富士川游顕彰記念植樹~医史跡番外編~
- 2016/11/22
- 18:24

富士川游顕彰記念植樹(安佐医師会館/広島市安佐南区八木5-35-2)安佐南区の安佐医師会館には、富士川游の顕彰記念に植えられた山桃の木と碑がある。もともとは、富士川游顕彰事業の一環として、昭和五十年、広島医師会館に生誕地である長楽寺一丁目より取り寄せた山桃の木三本を記念植樹したものであったが、平成六年、看護専門学校医療専門課程の校舎新築の為に再び移植したところ、枯死してしまい、「富士川游顕彰記念植樹」と...
富士川游先生顕彰碑~医史跡番外編~
- 2016/11/21
- 18:03

富士川游先生顕彰碑(広島大学医学部構内)広大内の吉益東洞顕彰碑は有名につき、訪れる漢方家も毎年かなりの人数に上ると思われるが、そのすぐ傍にあって意外に忘れられているのが、我が国医史学の先駆・富士川游先生(1865~1940)の顕彰碑である。この碑は吉益東洞先生之碑建立の翌年、広島大学医学部創立三十周年記念事業として建碑されたもの。デザインがナウくて、風情は今ひとつだが、東洞の顕彰碑より巨大で、現物を前にす...
吉益東洞先生之碑~広島漢方史跡~
- 2016/11/20
- 10:51

吉益東洞先生之碑(広島大学医学部構内)広島というのは岡山の西隣に位置するが、大阪からの距離感は岡山の比ではない。そんな訳で、漢方学習のスタートが東洞流の古医方であったのにも関わらず、庵主は広大の敷地内にある東洞翁の顕彰碑には中々足を運ぶ機会を持てずにいて、ようやく現地に降り立ったのは、本年五月のことであった。もともとは、東洞の母方・谷氏の菩提寺である報専坊の門のすぐ傍に建立されたが、平成六年に本堂...
尾台榕堂先生誕生の地碑~新潟漢方史跡~
- 2016/11/19
- 10:40

尾台榕堂先生誕生の地碑(新潟県十日町市中条甲)尾台榕堂といえば、藤平健先生が私淑された古方派の大家であるが、漢方家以外には知名度は0と言って良かろう。生誕地である新潟県十日町市でも同様であったらしいが、青年会議所が平成元年より人物掘り起こしを始め、平成二年には、没後120年祭を挙行、生家跡には写真の碑が建立された。場所は、中条小学校北側の道を東へ進んだ道沿い北側にある。...
湯本求真誕生之地碑~石川漢方史跡~
- 2016/11/18
- 18:38

湯本求真誕生之地碑(法広寺/石川県七尾市鵜浦町52-1)大塚敬節先生の師である湯本求真先生については、以前、千葉にある墓所と金沢の顕彰碑をご紹介しているが、今日お目にかけるのは生誕地である石川県七尾市に建てられた顕彰碑である。昭和五十九年に湯本求真顕彰会が建立し、会長は当時の七尾市長・守友友範氏(1919~1985)で、題字も守友市長の手に成る。残念ながら先月訪れた際は夕暮れ時で、運悪くこれ以上ない位の逆光が...
津田玄仙の墓~千葉漢方史跡~
- 2016/11/17
- 18:31

津田玄仙墓(波岡寺墓地)津田玄仙(1737~1809)は、元文二年に磐城白河藩医・津田玄琳の男として生まれ、名は兼詮、通称を玄仙といい、積山・屏塵舎と号した。父と水戸の芦田松意、及び京都の饗庭道庵に医学を学び、初め江戸で開業、のちに上総馬籠(千葉県木更津市)の田村家の養子となって、同地で医を業とした。著作に、『療治茶談』『勧学治体』など。玄仙の墓碑は二基あって、かつては両方とも木更津市畑沢の田村家敷地内に...
橋本律蔵の墓~東京漢方史跡~
- 2016/11/16
- 18:15

橋本律蔵墓(慈眼寺/足立区千住1-2-9)安藤昌益の稿本『自然真営道』101巻は、もともと北千住の穀物問屋「藁屋」の橋本律蔵(1824~1882)が所蔵していたもので、明治十五年に律蔵が死去し、浅草の老舗古書店「浅倉屋」に買い取られると、売却されたことを知った内田天正堂なる人が慌てて買い戻し、秘蔵していたものである。この天正堂の没後、再び古書店に売却され、これを明治三十二年に購入して安藤昌益が世に知られるきっかけ...