2016年の大勢占を振り返って
- 2016/12/29
- 10:03
年初に筮した今年の大勢占について検証。①豊之帰妹が示す通り、一昨年の豊之師に引き続いて、本年もまた混迷を極めた1年であったと言える。2015年では、死者12名のシャルリー・エブド襲撃や死者22名のチュニジア銃乱射、130人以上の死者を出したパリ同時多発テロなどが印象に残っているが、今年も3月には死者35名のブリュッセル連続テロ、6月にはフロリダで50人の死者を出したアメリカ史上最大の銃撃事件、同じく6月には48人が死亡...
奇妙なものアレコレ~掃苔こぼれ話~
- 2016/12/27
- 18:36

2009年の3月に初めてハカマイルというものを体験してから漢方医やら易儒やらの墓碑を追い求めてもうすぐ8年になろうとしている。まさに光陰矢の如しであるが、その間、掃苔した箇所は恐らく400を優に超えていよう。漢方医と易儒はほとんど全て蒼流庵随想にて紹介済みであるが、それ以外の分野もいくらか手を付けているから探墓に成功した実数だけで400は軽く超えている筈で、結局見つからずに終わったものを入れれば、600近くにな...
山梨稲川の墓
- 2016/12/26
- 18:26

山梨稲川墓(崇福寺/静岡市駿河区稲川1-3-17)山梨稲川(1771~1826)という学者の存在を庵主に知らしめたのは、湖南の『先哲の学問』であった。本来なら、昨年説文解字に触れたついでに其の墓所をご紹介したかったところなのだが、掃苔が叶ったのはつい先日のことである。山梨稲川は、明和八年に山梨維亮の四男として生まれ、名は治憲、字は玄度・叔子、通称を東平といい、稲川・昆陽山人・不如無斎・於陵子・煙霞都尉・山野聱民...
内藤湖南先生頌徳碑
- 2016/12/25
- 13:16

内藤湖南先生頌徳碑(十和田中学校/鹿角市十和田毛馬内上土ケ久保22-1)大湯川沿いの鹿角市立十和田中学校の駐車場には、内藤湖南の巨大な頌徳碑があり、これは湖南関係のモニュメント中最大のもので、昭和32年に毛馬内小中学校同窓会の創立六十周年を記念して建てられたものである(別にこの動機は湖南とは関係ないような?)。もとは毛馬内中学校の中庭に在ったが、昭和45年に同中学校は近隣の中学校と統合されて廃校となり(統...
内藤湖南旧宅~蒼流庵、蒼龍窟へ行く~
- 2016/12/25
- 09:40

内藤湖南旧宅鹿角市先人顕彰館の200mほど南には、明治13年、湖南十五歳の時に父十湾が建てた蒼龍窟があり、改装を経てはいるものの、未だ御子孫がお住まいで、門には「文学博士 故内藤虎次郎郷宅」の表札と、吉田晩稼書・内藤十湾刻の扁額「蒼龍窟」が掛かっている。“蒼龍窟”は禅籍の『碧巌録』三則にある「為君幾下蒼龍窟(君が為に幾たびか下る蒼龍の窟)」より採られたもので、河井継之助(1827~1868)も亦この号を用いた。な...
内藤湖南生誕地
- 2016/12/24
- 15:53

内藤湖南先生誕生地碑仁叟寺の南西40mほどの地点にあるのが、郷賢顕彰会によって昭和36年に建立された写真の生誕地碑である。しかし、実際の生誕地はここより約20mほど西方で、現在の碑は区画整理による道路拡幅に伴って、平成9年に移転されたもの。鹿角市先人顕彰館(秋田県鹿角市十和田毛馬内柏崎3-2)近くにある鹿角市先人顕彰館には、湖南の令孫・泰二氏によって寄贈された湖南愛用の品々が展示されていて、入館料210円の元は...
内藤湖南遺髪塔
- 2016/12/24
- 08:51

内藤湖南遺髪塔(仁叟寺/秋田県鹿角市十和田毛馬内番屋平26)内藤虎次郎(1866~1934)の号“湖南”は、生まれ故郷の陸奥国毛馬内村(現秋田県鹿角市)が十和田湖の南に位置していることに由来するもので、工藤新一とは何の関わりもない。庵主は京都の法然院にある真墓は早くに掃苔していたが、故郷の鹿角には中々足を運ぶ機会を持てずに七年の歳月が過ぎて行った。ようやく湖南の関連史跡を完全制覇する機会に恵まれたのは、本年10...
謎の木村方斎
- 2016/12/23
- 13:22

木村方斎先生墓(瓜破霊園)今年初め、我が家の累代墓を清掃する為、大阪市平野区の瓜破霊園を訪れた際、霊園東南にあるトイレ横の無縁墓域が気になって何とはなしに眺めていると、「木村方斎先生墓」と刻まれた墓碑が目に留まった。木村方斎(1853~1886)は、藤沢南岳に学び、明治十九年に三十四歳で早世した漢学者で、天王寺区生玉寺町の清恩寺に葬られ、墓碑は現在同寺の無縁墓域中に押し込められている。方斎先生墓碣(清恩寺...
木村敬二郎を探して③
- 2016/12/22
- 18:24
これまでの調査で、『大阪訪碑録』に云う敬二郎の“家業”が、酒造業であったことが判明した。敬二郎は三宅橋本氏の次男坊で、道修町で酒造業を営む木村伊太郎の娘婿となって分家し、自身も酒造業を営んでいた訳だ。『大阪現代人名辞書』には娘が二人居たと記載されており、一人は明治24年生まれの木村みね、もう一人は明治27年生まれの木村しつである。男子がなかったようであるから、敬二郎の木村家は一代で絶家したものかも知れな...
木村敬二郎を探して②
- 2016/12/22
- 06:14

図書館の郷土資料コーナーでふと手にした『大阪現代人名辞書』(文明社/大正2年刊)に木村敬二郎の名を見出したのは今年三月のことで、大変に驚くと共に、その生涯の謎に包まれていた理由の一端を垣間見た気がした。同書の「木村伊太郎」なる酒造業者の項には、明治二年生まれの姉が文久元年生まれの敬二郎なる人物に嫁いだとあり、この敬二郎は大阪府の平民・橋本加九十郎の二男とある。『大阪人物辞典』では、訪碑録凡例項の「六...
木村敬二郎を探して①
- 2016/12/21
- 18:22
偉大な仕事を成し遂げたアマチュアと凡庸な専門家とでは、孰れがより後世を裨益するものか、態々申し述べるに及ぶまいが、前者は後者に比して名前が残り難いのは不可思議なことだ。先にご紹介した寺田貞次先生など、百年前の著述が種々の学界を未だに裨益し続けているアマチュアの業績の好例と言って良かろうが、京都大学教授まで務めた学者であるにも関わらず、その業績が趣味の分野である為か、顕彰する目的で文を起こす人すら殆...
泊園書院跡碑
- 2016/12/21
- 06:04

明治六年の藤沢南岳による再興から三年後、泊園書院は淡路町一丁目東北角に移転され、昭和三十五、大阪市教育委員会によって泊園書院跡を示す碑が淡路町一丁目4-4に建てられた。庵主が此の碑を見る為、同地を訪れたのは本年初めのことであるが、ビル工事の為、養生されていて碑を目にすることが出来ず、四月半ばに再訪したところ、なんと解体工事の際に落下物の直撃を受けて、泊園書院跡碑は根元からボッキリと折れて仕舞っていた...
泊園書院址碑
- 2016/12/20
- 18:19

泊園書院址碑(関西大学以文館北側)藤沢東畡が文政八年(1825)に興した泊園書院は、のちに関西大学の源流の一つとなった漢学塾で、幕末期にはかの懐徳堂をもしのぐ大阪最大の私塾として栄えた。明治六年には、東畡の子・南岳によって再興され、その学徳を慕って全国から学生が集まったが、その中に木村敬二郎も居たようである。泊園書院の場所は何度も変わっていて、文政八年に東畡が始めたのは現在の淡路町五丁目で、南岳が明治...
藤沢東畡・南岳の墓
- 2016/12/19
- 18:16

藤沢南岳墓(齢延寺/大阪市天王寺区生玉町13−31)木村敬二郎の師・藤沢南岳(1842~1920)は、天保十三年に藤沢東畡の長男として讃岐大川郡引田で生まれ、名は元章、字は君成、通称を恒・恒太郎といい、南岳・醒狂・醒狂子・香翁・七香斎主人・九々山人と号した。家学を受けて高松藩に仕え、大阪に在って父より塾舎泊園書院を継いだ。尊王の志篤く、佐幕派の藩を官軍に帰順させることに尽力し、藩の保全に努めた。その後、藩政に参...
『大阪訪碑録』と木村敬二郎
- 2016/12/18
- 14:17

『大阪訪碑録』木村敬二郎著(『浪速叢書』10巻所収/1929年刊)京都に寺田貞次の如き偉大な掃苔家が居たように、大阪にも“浪速版寺田貞次”とでもいうべき人物が居た。その名を木村敬二郎といい、その仕事は1929年に『浪速叢書』の一冊として刊行された『大阪訪碑録』で知ることが出来る。この本は、寺田貞次の『京都名家墳墓録』と比べると、完成度の点では抗し難い。収載されている件数はずっと少ないし、墓碑の形状や位置、子孫...