金古景山~楽しいイエマイル~
- 2018/02/27
- 18:12

『天保医鑑』(『京都の医学史:資料編』より)古方派に分類される医家のうち、最も謎に包まれた人物を一人挙げろと言われれば、私ならまず第一に古矢知白の名を挙げるだろう。徹頭徹尾、易理を以て『傷寒論』を解した医家として知られ、その著述は、名著出版の近世漢方医学書集成にも収められているし、たにぐち書店からは『意釈正文傷寒論復聖弁』が現在も入手可能である。写本を含めれば、『症因問答』『古方括要』『傷寒論正文...
味岡三伯~楽しいイエマイル~
- 2018/02/24
- 18:09

『良医名鑑』(『京都の医学史:資料編』より)味岡三伯については、以前掃苔を記事にしているが、『良医名鑑』に「富小路三條上ル町」と居宅の記載がある。本書は、正徳三年(1713)の刊行であることに加え、隣に記載されている浅井周迪に注して「父周伯者古三伯門人」とあるところから、ここの三伯は新三伯ということになるので、二代目(1666~1726)を指したものかと思われる。三代共に居宅を変えなかったとすれば、岡本一抱や...
和田東郭~楽しいイエマイル~
- 2018/02/21
- 18:52

荻野元凱の良きライバルであった折衷派の和田東郭の居宅は、『平安人物志』天明二年版に「柳馬場四条上ル町」と記されており、通りを数十メートル上ると、“京都の台所”錦市場と交差する。荻野家が後嗣まで含めると、『平安人物志』の全ての版に登場するのに対し、残念ながら、和田東郭は天明二年版にしか見えておらず、荻野家ほど長期に渡って活躍した様子はない。...
荻野元凱~楽しいイエマイル~
- 2018/02/18
- 08:48

紫織庵新町三条南にあった荻野元凱の宅跡には、現在、京町家と長襦袢のミュージアム紫織庵が立っており、同庵は大正時代に建てられた歴史的建築ということで、京都市の文化財指定を受けている。入口横に元凱について書かれた解説板が立っているが、木製の為、経年劣化で殆ど判読不能の状態。『平安人物志』の文化十年版から天保九年版に至る四版では、代替わりして、嗣子・鳩峰(1772~1840)の名が出ており、嘉永五年版および最後...
宇津木昆台~楽しいイエマイル~
- 2018/02/15
- 18:05

車屋町押小路南宇津木昆台の居宅は、『平安人物志』文化十年版には「烏丸御池北」とあり、文政五年版から天保九年版までの三版では、いずれも「車屋町押小路南」となっている。此の二つは、同じ区画の表裏である為、或いは同じ場所なのかもしれない。同通りには、かつて石田梅岩(1685~1744)の講舎があり、現在、石碑と説明版が立っている。石田梅岩講舎跡なお、『漢方の臨床』の昨年12月号に、松岡尚則先生による「宇津木昆台の...
蒼流庵 in 京都大学
- 2018/02/13
- 18:36

日曜日、京都大学人文科学研究所で開かれた汎アジア科学文化論の研究会にて、「生薬探偵の冒険」と題して発表させて頂いた。昨年10月にさる団体より学術奨励賞を頂いたのだが、11月にオケラの会に参加された武田時昌教授が受賞を知り、その記念講演という形で、研究会での発表を提案して下さったのである。京大人文研の研究会には、前の東アジア伝統医療文化研究会の時から参加させて頂いていて、ちょうど今月で丸三年になる。三年...
香月牛山~楽しいイエマイル~
- 2018/02/10
- 13:49

『良医名鑑』(『京都の医学史:資料編』より)古方派の台頭以前、我が国の医学の主流が後世方、つまり曲直瀬流であったことは論を俟たぬが、昨今、後世方医の書物はあまり読まれることはなく、それは始祖たる曲直瀬道三といえども例外ではないようだ。そんな中、今日でも割に人気があってよく読まれているのが、香月牛山の書物で、愛読書に『牛山活套』『婦人壽草』などを挙げる人は少なくないらしい。牛山と言えば、福岡に生まれ...
内藤尚賢~楽しいイエマイル~
- 2018/02/07
- 18:22

『平安人物志』文政十三年版より(日文研所蔵)『平安人物志』文政十三年版および天保九年版には、『古方薬品考』の著者として知られる内藤尚賢の名が見えている。尚賢は長らく謎に包まれた人物で、小野蘭山の門人録に其の名が見えている他は、字を剛甫、通称を主馬といい、魯斎・菊渓・蕉園と号した、という程度の僅かな事柄が知られているに過ぎなかった。しかし、近年、山本亡羊の子孫が所蔵する『山本氏家譜』および愛知県西尾...
中西深斎~楽しいイエマイル~
- 2018/02/04
- 18:35

東洞の高弟・中西深斎の居宅は、『平安人物志』安永四年版および天明二年版に「麩屋町二条下ル町」と記されている。後半生は、諸侯の招きにも応じず、門を閉ざして三十年の間研究執筆を旨とした為、其の学問を臨床から離れた机上のものとして批難する向きもあったが、二大著述『傷寒論弁正』『傷寒名数解』は今も日本人の手になる『傷寒論』解説として名著の誉れが高い。そして、此の二著が執筆されたのは、この通りにあった居宅で...
いつの間にか60000ヒット
- 2018/02/02
- 18:10
気づけば、アクセスカウンターが60000を超えている。来月からは、テーマを変えた連載を予定していて、更新頻度も上げていく予定(というか上げざるを得ない理由がある)。これまでの読者諸氏には恐らく畑違いの内容になるので、しばらくアクセス数は低迷するだろう。が、以前とは全く違った種類の人たちとご縁があるのではないかと今から楽しみにしている。もう鍼灸師と占い野郎はこりごりだ。...
吉益家~楽しいイエマイル~
- 2018/02/01
- 18:03

吉益家の居宅跡と言えば、言わずと知れた竹間小学校跡の石碑が思い浮かぶ筈だが、『平安人物志』を紐解けば、吉益一族は京の都で転々と居を移し続けたことが判る。下立売烏丸西江入町(以下『平安人物志』は日文研所蔵資料より)東洞の嗣子・南涯の所在は、「下立売烏丸西ヘ入ル」(安永四年版)、「新町御池下ル」(天明二年版)、「三条東洞院西」(文化十年版)と変わっているが、南涯は天明二年の大火により一時大阪の船場に移...