佐々木琴台~東京易儒墓参録~
- 2019/08/28
- 18:26

佐々木琴台墓(谷中天王寺墓地)佐々木琴台(1744~1800)は、延享元年に近江で生まれ、初め田中氏であったが、近江源氏の嫡流として氏を佐々木に復す。名は世元、字は長卿、通称を源三郎・良輔・帯刀といい、琴台・仁里・彩瀾と号した。松永淵斎・村士玉水(1729~1776)・種村箕山(1720~1800)らに学び、京都・江戸で教授した。家は代々兵法を伝え、天文にも通じた。松宮観山・六如慈周(1734~1801)・山県大弐(1725~1767)...
会沢正志斎~茨城易儒墓参録~
- 2019/08/25
- 12:48

会沢正志斎墓(本法寺/茨城県水戸市千波町2367)水戸学藤田派に属する会沢正志斎(1782~1863)は、天明二年に水戸藩士・会沢恭敬の長男として生まれ、名は安、幼名は市五郎・安吉、字は伯民、通称を恒蔵といい、正志斎・憩斎・欣賞斎と号した。十歳で藤田幽谷(1774~1826)に師事、彰考館の写字生を経て、文化元年(1804)に諸公子侍読となり、後の藩主・徳川斉昭(1800~1860)を教育した。文政九年(1826)、彰考館総裁となり...
鈴木文台~新潟易儒墓参録~
- 2019/08/22
- 18:20

鈴木文台墓(長楽寺/新潟県燕市粟生津136)新潟は上越にある這蔦亭に阿波古流の茶人・関沢春人先生を訪ねた帰り、燕市に足を延ばして、易儒・鈴木文台(1797~1870)の掃苔を行ったのは、猛暑が押し寄せる直前、昨年六月の事であった。文台は、寛政八年に医師・鈴木見義の次男として生まれ、名を弘、字を子毅、通称を陳蔵といい、文台・石舟と号した。後藤託玩・太田芝山に学び、江戸に出るも病のため帰郷して私塾・長善館を開いて...
伏屋素狄の史跡を歩く
- 2019/08/19
- 19:41

中野操文庫の調査が一通り終わって、大阪市立中央図書館を出た後、今井先生がすぐ近くにある伏屋素狄(1748~1812)の顕彰碑へ案内してくださった。私は蘭医にはまるで暗い為、最近まで名前くらいしか知らなかった医家なのだが、漢方医から蘭方医に転向して人体を含む各種解剖を盛んに行った人で、特に墨汁を腎臓に注入して、濾過および尿の生成機能を疑似的に観察したことで名高い。日本実験生理学の祖である事を称え、図書館の東...
大阪市史編纂所へ
- 2019/08/16
- 21:26

今年のお盆は猛暑のせいもあって何も予定を入れずにいたら、諸般の事情でギリシャ行きが流れた今井秀先生と中野操文庫を閲覧しに行く事になった。中野操(1897~1986)と言えば、関西医史学界の重鎮として斯界を牽引された偉大なる先学であるが、その貴重資料を含む蔵書群は現在大阪市史編纂所の所蔵する処となっている。大阪市立図書館は広瀬宏道先生寄贈せし処の『易学研究』等も架蔵されていて、年に何度か閲覧利用の機会がある...
寺西易堂の墓
- 2019/08/13
- 12:21

寺西易堂墓(梅旧禅院/大阪市天王寺区夕陽丘町1-18)昨夏は、各務文献先生の法要準備や顕彰碑建立などで、何度も夕陽丘の浄春寺へ足を運んだが、或る時、実行委員長の今井秀先生のお誘いで、浄春寺の北隣にある梅旧禅院(少し前ヤクザ絡みの騒ぎがあったアソコ)の墓所を覗いてみる事になった。今井先生は斎藤方策(1771~1849)の掃苔で何度か訪れているということであったが、庵主は蘭方医には丸で関心が無いので、これまで足を...
木村敬二郎を探して~完結篇~
- 2019/08/10
- 14:10

2016年の年の瀬に、『大阪訪碑録』の著者・木村敬二郎について調べた結果を木村敬二郎を探してと題して三回に亘って連載した。この木村敬二郎が初めて手掛けた掃苔は、『大阪訪碑録』の自序によると、どうやら永富独嘯庵であったものらしい。特別医学に関心があったという訳ではなさそうだし、掃苔を始めた明治の終わり頃に住んでいた道修町から墓所のある蔵鷺庵が近いという訳でもないのだが、よく考えてみると、独嘯庵が医業を行...
下関市王司創立120周年記念誌『王司の歴史と民俗史』
- 2019/08/07
- 18:09

『王司の歴史と民俗史』(2018年刊)永富独嘯庵の生まれ故郷である下関市王司で、熱心に顕彰活動に取り組まれている日高栄美子女史より、王司120周年記念誌『王司の歴史と民俗史』を恵与されたのは、本年一月暮れのことであった。明治維新150年にあたる平成30年は、明治30年に王司村が誕生して120年目の年に当っており、本書は其の記念事業の一環として王司郷土文化研究会が編纂した町史である。独嘯庵については、見開き一項(110...
永富独嘯庵発掘の功労者・木山芳朋先生のこと
- 2019/08/04
- 13:44

戦前、永富独嘯庵研究の第一人者として知られたのは、医史学の泰斗・富士川游で、戦後は寺師睦宗先生や我が師・粟島行春先生らが、それぞれ私淑して熱心に顕彰活動に取り組まれたが、それら諸家の影に隠れ、今では医史学者の間ですら、その名が殆ど知られていない独嘯庵発掘の功労者が居る。その功労者・木山芳朋先生(1914~1977)については、今日独嘯庵に特別の関心を持つ一部の人だけが知る存在で、著述としては『独嘯庵』およ...
小田亨叔と敬業館
- 2019/08/01
- 18:00

独嘯庵門の三傑と言えば、亀井南冥・小石元俊・小田亨叔であるが、このうち小田亨叔だけは独嘯庵の実弟、つまり血縁者である。安永三年(1774)、28歳の時、藩公の命により藩医・小田雲同の養子となった。功山寺の小田家墓所それぞれ、右が小田亨叔、中央が養子の南陔、左が南陔の後を承けた嶽陽の墓碑。寛政四年(1792)5月、長府藩第十代藩主毛利匡芳(1758~1792)により藩校「敬業館」が創設されると、亨叔は都講兼医員に任ぜ...