吉益家~楽しいイエマイル~
- 2018/02/01
- 18:03
吉益家の居宅跡と言えば、言わずと知れた竹間小学校跡の石碑が思い浮かぶ筈だが、『平安人物志』を紐解けば、吉益一族は京の都で転々と居を移し続けたことが判る。
東洞の嗣子・南涯の所在は、「下立売烏丸西ヘ入ル」(安永四年版)、「新町御池下ル」(天明二年版)、「三条東洞院西」(文化十年版)と変わっているが、南涯は天明二年の大火により一時大阪の船場に移住しており、帰京して居を定めたのが三条東洞院西のようである。
文化十年は、南涯の没年に当たっているので、或いはここが終焉の地であるかもしれない。
三条東洞院西には、幕末に庶民の教育機関であった教諭所があった。
養子となって南涯の跡を継いだ北洲も同じ場所で医業を行ったことが文政五年版と文政十三年版で確認出来る。
北洲は、其の後、加賀藩医となった為に京都を離れ、家業は養子の復軒(1819~1893)が継ぎ、復軒の居宅は、嘉永五年版に「松原堺町西」、慶応三年版に「高倉四条南」と記されている。
下立売烏丸西江入町(以下『平安人物志』は日文研所蔵資料より)
東洞の嗣子・南涯の所在は、「下立売烏丸西ヘ入ル」(安永四年版)、「新町御池下ル」(天明二年版)、「三条東洞院西」(文化十年版)と変わっているが、南涯は天明二年の大火により一時大阪の船場に移住しており、帰京して居を定めたのが三条東洞院西のようである。
三条東洞院西
文化十年は、南涯の没年に当たっているので、或いはここが終焉の地であるかもしれない。
三条東洞院西には、幕末に庶民の教育機関であった教諭所があった。
養子となって南涯の跡を継いだ北洲も同じ場所で医業を行ったことが文政五年版と文政十三年版で確認出来る。
松原堺町西
北洲は、其の後、加賀藩医となった為に京都を離れ、家業は養子の復軒(1819~1893)が継ぎ、復軒の居宅は、嘉永五年版に「松原堺町西」、慶応三年版に「高倉四条南」と記されている。
高倉四条南
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