中西深斎~楽しいイエマイル~
- 2018/02/04
- 18:35
東洞の高弟・中西深斎の居宅は、『平安人物志』安永四年版および天明二年版に「麩屋町二条下ル町」と記されている。
後半生は、諸侯の招きにも応じず、門を閉ざして三十年の間研究執筆を旨とした為、其の学問を臨床から離れた机上のものとして批難する向きもあったが、二大著述『傷寒論弁正』『傷寒名数解』は今も日本人の手になる『傷寒論』解説として名著の誉れが高い。
そして、此の二著が執筆されたのは、この通りにあった居宅であろう。
なお、『平安人物志』明和五年版には、一区画北の「麩屋町二条上ル」に斎宮静斎の名が見えているが、静斎は東洞の最も信頼しかつ尊敬した儒者で、其の子らを盡く従学させた他、和田東郭も一時静斎の門に学んでいる。
文政五年版『平安人物志』には、韻学および医家の項に中西惟友の名が見え、俗称中西主馬とあるが、同じく主馬を名乗った深斎は既に他界しているし、其の嗣子・鷹山について、『国書人名辞典』は碑文を引き、名は惟孝、字は君友、通称は幹蔵と記す。
鷹山の子には、惟成・惟孚・惟安が居たというが、惟友の名は見えず、詳細は不明。
浅田宗伯は、十八歳で京都に出て、深斎が開いた塾で古方を学んだというが、恐らくそれは此の場所で、其の師は惟友ではなかったか。
ちなみに、明治年間、京都書壇に覇を称えた書家の小林卓斎(1831~1916)の居宅が、同通りにあったことが『平安人物志』慶應三年版に記されている。
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