内藤尚賢~楽しいイエマイル~
- 2018/02/07
- 18:22
『平安人物志』文政十三年版より(日文研所蔵)
『平安人物志』文政十三年版および天保九年版には、『古方薬品考』の著者として知られる内藤尚賢の名が見えている。
尚賢は長らく謎に包まれた人物で、小野蘭山の門人録に其の名が見えている他は、字を剛甫、通称を主馬といい、魯斎・菊渓・蕉園と号した、という程度の僅かな事柄が知られているに過ぎなかった。
しかし、近年、山本亡羊の子孫が所蔵する『山本氏家譜』および愛知県西尾市は岩瀬文庫所蔵の『榕室叢抄』を調査された遠藤正治先生(1940~2016)によって幾つかの新事実が明らかにされている。
それによると、蘭山以外に物部寿斎からも本草を学び、弘化三年九月二十八日に六十四歳で没しており、天保二年には自宅で内藤朱焦園薬品会を開いたという。
なお、尚賢はどうやら普通の医家ではなかったらしく、『天保医鑑』にこそ「内科」とあるが、『平安人物志』では医家の項に記載がなく、文政十三年版、天保九年版共に「物産」の項に入れられており、両版共に、なんと「易学」の項目にも名前が挙がっているのである。
この「易学」の項に見える他の名は、松井稀星(羅州の子)にせよ高松貝陵にせよ、経書としての易ではなく、売卜を業とした人であるから、尚賢には卜者としての顔があったものらしい。
こうなると、医者が本業であったのかどうか、疑いたくなってくるところだが、『古方薬品考』では収載薬物の一品ごとに、京都画壇の各名家が挿図を描いている辺り、相当羽振りの良かったことを窺わせ、やはり一筋縄では行かぬ得体の知れない人物のようだ。
『平安人物志』安永四年版には、同通りに、浅井南溟(1734~1781)、文化十年版には、儒者で浅田宗伯の師でもあった猪飼敬所の名が見えている。
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