イエマイルを終えて
- 2018/03/02
- 18:50
漢方医家のイエマイルを意識的に行うようになったのは一昨年の春であったが(それまでにも東洞や天民の宅跡は足を運んでいるが、意識的に行うようになってからは、石碑の類ではなく通りそのものを目当てに散策するようになった)、『平安人物志』を手掛かりにしてのイエマイルは、2015年の9月に試みた新井白蛾の宅跡探訪が最初である。
当初は、先に述べた通り、当人の活躍した場所の空気や人気のようなものを感じることが出来ればと思っていたのだが、実際に調べ出すと、京都の文化的密度の尋常ならざる高さを痛感することになった。
少し時代を前後させれば、同じ通りに、誰もが知るような有名人が居住していたり、或いは同時代に異分野の大物が近隣住民として生活している。
記録にこそ残っていないだけで、或いは親密な近所付き合いがあったのかもしれない。
そう考えると、京都が日本文化の中心であったことが肌で感じられるし、また、そういう環境があったればこそ、江戸時代の文化はあれほど豊穣なものに醸成されたとも言える訳だ。
また、それぞれの位置関係を並べてみて気づくこともある。
たとえば、名古屋玄医や香川修庵、後藤艮山、並河天民といった古方派黎明期の医家の所在は、全て御所西側の区画に集中しているが、これは啓廸院の立地もさることながら、どうしても目が行くのは、やはり伊藤古義堂であろう。
こういう点から覗き見ると、医史学に限らず、少し違った歴史の見方、捉え方というものが出来るのではないかという気がした。
お勉強は何も机の上でだけするものではない。
『書を捨てよ、町へ出よう』は、寺山修司の本のタイトルだが、書を持って町を散策するのもまた良いものだ。
当初は、先に述べた通り、当人の活躍した場所の空気や人気のようなものを感じることが出来ればと思っていたのだが、実際に調べ出すと、京都の文化的密度の尋常ならざる高さを痛感することになった。
少し時代を前後させれば、同じ通りに、誰もが知るような有名人が居住していたり、或いは同時代に異分野の大物が近隣住民として生活している。
記録にこそ残っていないだけで、或いは親密な近所付き合いがあったのかもしれない。
そう考えると、京都が日本文化の中心であったことが肌で感じられるし、また、そういう環境があったればこそ、江戸時代の文化はあれほど豊穣なものに醸成されたとも言える訳だ。
また、それぞれの位置関係を並べてみて気づくこともある。
たとえば、名古屋玄医や香川修庵、後藤艮山、並河天民といった古方派黎明期の医家の所在は、全て御所西側の区画に集中しているが、これは啓廸院の立地もさることながら、どうしても目が行くのは、やはり伊藤古義堂であろう。
こういう点から覗き見ると、医史学に限らず、少し違った歴史の見方、捉え方というものが出来るのではないかという気がした。
お勉強は何も机の上でだけするものではない。
『書を捨てよ、町へ出よう』は、寺山修司の本のタイトルだが、書を持って町を散策するのもまた良いものだ。
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