秘伝と奥義
- 2014/01/31
- 19:52
“秘伝”とか“奥義”というものは、易学に限らず、常に初学者を惹きつけてやまないものである。
そのような言葉を利用して、無知蒙昧なる人々から金銭をむしり取る恥知らずな連中は、今も昔も後を絶たないらしい。
武術を嗜んでいた関係で、やれ秘伝だの奥義だのという言葉は嫌というほど耳にしてきた。
今、思う所をいくつか書いてみたい。
秘伝とされているものは、大岳先生が書いているように、合理的な説明が出来ない為に、秘伝として隠されたものが多く、言ってみれば、このような秘伝は、実用性の低い、どうでもよいような代物とも言える。
しかし、秘伝とされているものの全てがこの範疇とも言い切れない。
それは、上級者にしか扱えない為に、秘伝として隠されたものがあるからだ。
この手の秘伝は、ある程度の水準に達して初めて、その真価を引き出せるものであり、初学者に妄りに教えると、使いこなせないばかりか、混乱を招いて反って上達を妨げてしまうような類いのもので、これは隠すべきものである。
学習者が一定の水準に達したと指導者が判断した場合にのみ、伝授されるようでないと、無益であるのみならず、有害であるからだ。
秘伝と同じようでいて、まったく違うものに“奥義”がある(少なくとも蒼流庵主人はそう理解している)。
秘伝というのは、たいてい、種明かしをすれば「な~んだ、そんなことか」と言われるような単純なものであるが、奥義とは、そのようなものではない。
もっともベーシックな基本の延長に会得される境地が奥義であり、一朝一夕に理解出来るようなものではないところが、秘伝とは違っているのである。
例えば、易経の奥義とは何か?といえば、それは易経そのものであると言えるのではなかろうか。
易経の奥義とは、易経にある六十四卦三百八十四爻であり、付け加えるなら、その経文の理解を助ける為に、孔子が書かれたという十翼である。
秘伝だの何だのと言われているものは、結局は周易の経文をこねくり回して出てきただけのものであるし、周易から離れた秘伝だの奥義だのが在るはずもない。
例えば、世に射覆の秘伝書と称するものがあり、とくに江戸時代にこの手の本が沢山書かれているけれど、結局は射覆の秘伝などというものは、十翼の説卦伝を色々に敷衍して発展させたものに過ぎない。
結局は、周易を経文のみならず、その行間まで読み切った人間だけが、“奥義”を会得したと言い得るのではなかろうか。
ベーシックな学問・修練の積み重ねの延長にしか奥義などあろうはずもなく、奥義を会得した人は、当たり前のことを当たり前にやりきっただけのことだろうと思う。
達人・名人の使う技法がどれもシンプルなものばかりであることにもそれは表れているようにも思うが如何だろうか。
以上は、あくまでも蒼流庵主人の私見に過ぎないけれど、易学だけでなく、どの分野にも共通していることのように思われるので、この問題は大いに考えてみる価値がある。
“秘伝”や“奥義”だのと聞くと、どんな高い書籍やセミナーにもすぐに飛びついてしまうような人は、この機会に振り返って頂けたらと思う。
そのような言葉を利用して、無知蒙昧なる人々から金銭をむしり取る恥知らずな連中は、今も昔も後を絶たないらしい。
武術を嗜んでいた関係で、やれ秘伝だの奥義だのという言葉は嫌というほど耳にしてきた。
今、思う所をいくつか書いてみたい。
秘伝とされているものは、大岳先生が書いているように、合理的な説明が出来ない為に、秘伝として隠されたものが多く、言ってみれば、このような秘伝は、実用性の低い、どうでもよいような代物とも言える。
しかし、秘伝とされているものの全てがこの範疇とも言い切れない。
それは、上級者にしか扱えない為に、秘伝として隠されたものがあるからだ。
この手の秘伝は、ある程度の水準に達して初めて、その真価を引き出せるものであり、初学者に妄りに教えると、使いこなせないばかりか、混乱を招いて反って上達を妨げてしまうような類いのもので、これは隠すべきものである。
学習者が一定の水準に達したと指導者が判断した場合にのみ、伝授されるようでないと、無益であるのみならず、有害であるからだ。
秘伝と同じようでいて、まったく違うものに“奥義”がある(少なくとも蒼流庵主人はそう理解している)。
秘伝というのは、たいてい、種明かしをすれば「な~んだ、そんなことか」と言われるような単純なものであるが、奥義とは、そのようなものではない。
もっともベーシックな基本の延長に会得される境地が奥義であり、一朝一夕に理解出来るようなものではないところが、秘伝とは違っているのである。
例えば、易経の奥義とは何か?といえば、それは易経そのものであると言えるのではなかろうか。
易経の奥義とは、易経にある六十四卦三百八十四爻であり、付け加えるなら、その経文の理解を助ける為に、孔子が書かれたという十翼である。
秘伝だの何だのと言われているものは、結局は周易の経文をこねくり回して出てきただけのものであるし、周易から離れた秘伝だの奥義だのが在るはずもない。
例えば、世に射覆の秘伝書と称するものがあり、とくに江戸時代にこの手の本が沢山書かれているけれど、結局は射覆の秘伝などというものは、十翼の説卦伝を色々に敷衍して発展させたものに過ぎない。
結局は、周易を経文のみならず、その行間まで読み切った人間だけが、“奥義”を会得したと言い得るのではなかろうか。
ベーシックな学問・修練の積み重ねの延長にしか奥義などあろうはずもなく、奥義を会得した人は、当たり前のことを当たり前にやりきっただけのことだろうと思う。
達人・名人の使う技法がどれもシンプルなものばかりであることにもそれは表れているようにも思うが如何だろうか。
以上は、あくまでも蒼流庵主人の私見に過ぎないけれど、易学だけでなく、どの分野にも共通していることのように思われるので、この問題は大いに考えてみる価値がある。
“秘伝”や“奥義”だのと聞くと、どんな高い書籍やセミナーにもすぐに飛びついてしまうような人は、この機会に振り返って頂けたらと思う。
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