昭和は遠くなりにけり①
- 2019/01/16
- 18:56
昨今、薬用植物の観察と言えば、その殆どが薬科大などに併設されている植物園の見学に終始するのだが、戦前の漢方誌である『漢方と漢薬』などを覗き見ると、昔はフィールドでの薬用植物の観察会が結構行われていたことが判る。
『漢方と漢薬』では、昭和11年12月号の「富士山麓山草薬草採集記」、昭和12年9月号~12月号の「蝦夷採薬記」、15年7月号の「拓大漢方講座同窓会薬草採集」、16年11月号の「植物採集紀行」、17年11月号の「御殿場の柴胡採集」、『東亜医学』では昭和15年7月号の「薬草採集ハイキング」など。
大部分を、清水藤太郎先生(1886~1976)が引率されているのが目につく。
戦後の『漢方の臨床』になると、こういった観察会はあまり行われなくなったようである。
勿論、これを以て戦前の方が熱心な臨床家の多かったことを必ずしも意味しない。
昨今のように、そこら中に薬草園のある時代ではないのだから、観察しようと思えば、フィールドに出ざるを得なかったという事情もあろうし、外来種に押されて在来の薬用植物が激減した現代よりも、身近な場所で手軽に内容のある観察会を行い得る時代だったと捉えることも出来るからである。
しかし、上記の観察会における成果(実際に観察採集された植物)一覧を観ると、現代の我々の眼から見て、そんなに希少なものがボンボコ見られていたかと言えば、そうでもないようだ。
『東亜医学』昭和15年7月号の「薬草採集ハイキング」を見ると、確かに一日で観察出来たと考えれば、なかなか豪華でお得感のある観察会には違いないものの、一つ一つは孰れも大阪で探せるものばかりであるし、その他の観察会においても、似たり寄ったりである。
これなら、生薬探偵引率の金匱植物同好会でも、さして引けを取らぬ内容の会になりそうな気がせぬでもない(実際、昨秋の第一回例会は充分抗し得る内容だったと自負している)。
実は、それなりに、多種多様なものが観察出来ないと参加者諸氏に満足して頂けないと思い、第二回観察会の開催地について頭を抱えていたのだが、戦前の清水藤太郎引率の観察会ですら、この程度だったとしたら、毎月場所を変えて開催しても、それなりに満足度の高い会に出来そうな気がする。
あまり怖気づかずに、気軽に今年は開催してみたいし、或る程度の人数が集まれば、外部講師として出張する事も考えてみたい。
『漢方と漢薬』では、昭和11年12月号の「富士山麓山草薬草採集記」、昭和12年9月号~12月号の「蝦夷採薬記」、15年7月号の「拓大漢方講座同窓会薬草採集」、16年11月号の「植物採集紀行」、17年11月号の「御殿場の柴胡採集」、『東亜医学』では昭和15年7月号の「薬草採集ハイキング」など。
大部分を、清水藤太郎先生(1886~1976)が引率されているのが目につく。
戦後の『漢方の臨床』になると、こういった観察会はあまり行われなくなったようである。
勿論、これを以て戦前の方が熱心な臨床家の多かったことを必ずしも意味しない。
昨今のように、そこら中に薬草園のある時代ではないのだから、観察しようと思えば、フィールドに出ざるを得なかったという事情もあろうし、外来種に押されて在来の薬用植物が激減した現代よりも、身近な場所で手軽に内容のある観察会を行い得る時代だったと捉えることも出来るからである。
しかし、上記の観察会における成果(実際に観察採集された植物)一覧を観ると、現代の我々の眼から見て、そんなに希少なものがボンボコ見られていたかと言えば、そうでもないようだ。
『東亜医学』昭和15年7月号の「薬草採集ハイキング」を見ると、確かに一日で観察出来たと考えれば、なかなか豪華でお得感のある観察会には違いないものの、一つ一つは孰れも大阪で探せるものばかりであるし、その他の観察会においても、似たり寄ったりである。
これなら、生薬探偵引率の金匱植物同好会でも、さして引けを取らぬ内容の会になりそうな気がせぬでもない(実際、昨秋の第一回例会は充分抗し得る内容だったと自負している)。
実は、それなりに、多種多様なものが観察出来ないと参加者諸氏に満足して頂けないと思い、第二回観察会の開催地について頭を抱えていたのだが、戦前の清水藤太郎引率の観察会ですら、この程度だったとしたら、毎月場所を変えて開催しても、それなりに満足度の高い会に出来そうな気がする。
あまり怖気づかずに、気軽に今年は開催してみたいし、或る程度の人数が集まれば、外部講師として出張する事も考えてみたい。
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