近畿植物同好会のこと
- 2019/01/25
- 18:45
昨年発足した我が金匱植物同好会は、私も会員である近畿植物同好会のパクリ、じゃなかった、パロディである。
振り返れば、生薬探偵稼業も間もなく八年目に突入する訳だが、この会が無かったら、とうてい探偵として独り立ちする事は出来なかったに違いない。
近畿植物同好会は、民間の植物観察会では老舗中の老舗で、恐らくこれ以上に古い団体となると、1909年発足の横浜植物会(ヘッドは牧野富太郎)と1911年発足の東京植物研究会くらいではなかろうか。
旧堺中学校(現三国ヶ丘高)の教員であった堀勝先生(1899~1976)の主唱で設立された同会は、はじめ「堺植物同好会」の名で発足し、二年目には「河泉植物同好会」と名称を改め、七年目に現在の近畿植物同好会となった。
1929年4月28日、浅香山にて第一回の採集会を行い、現在も月一の例会を欠かさず行っている。
戦前は成文の会則もなく、無会費制の珍しい会であったらしい。
現副会長の織田二郎先生によると、第一回例会から講師を務めたのが、牧野富太郎門下で、当時伝説のプラントハンターとして名を馳せた田代善太郎先生(1872~1947)で、この人は福島や熊本の師範学校で教師を務めた後、京都大学の植物学教室が嘱託として雇っていたらしく、数万点の採集標本が京大理学部に保管されているそうだ。
左:田代善太郎講師 / 右:掘勝初代会長
多くの新種植物を発見しているが、中でも腐生ランの一種“タシロラン”は有名なもので、このタシロランの発見者である達人が毎回直接指導してくれるというので、会員が急増したらしいと私に話してくれたのも、織田副会長であったと思う。
フィールドでの生薬観察を思い立った私は、かつて、各大学の植物サークルなどに参加を希望する手紙を書いて随分送った時期があるのだが、どれも無礼千万なことに梨の礫であった。
そんな折、図書館の郷土資料コーナーにて、同好会の会誌が並んでいるのが目につき、住所として記載されている平野弘二先生のお宅を電撃訪問で訪ねたのだが、この平野先生は先代の会長を務めた方で、翌月の例会に参加しませんか、とお誘い下さったのである。
こうして、私の近植(略してキンショクと呼ばれている)活動が幕を開けることとなった。
入会して3年くらいは、例会の大半に参加したであろうか。
一通り、目当てのものを探し出す事が出来たので、最近はすっかり無沙汰を重ねて、昨年はついに初の例会参加ゼロの年となってしまった。
ここで、一言断っておきたいのは、例会において、目当ての生薬に出会えたという事も無い訳ではなかったが、ほとんどは単独自力での観察である。
例会では、似た植物の見分け方などを主に教わったが、図鑑などには書かれていないような秘伝を諸先輩方が惜しみなく伝授してくださるので、これは本当に有難かった。
各秘伝については、元小学校教師の横山先生(普通種なら葉っぱ一枚あれば同定出来るという生ける伝説)には特にお世話になったし、単独調査においては、デジタル採取(撮影)したものを、画像で同定してもらわねばならなかったが、これは山住一郎会長に随分助けて頂いた。
山住会長は、シダ植物がご専門であるが、ほとんどの植物を写真だけで同定する事が出来るという神業の持ち主で、これだけジャンルを問わない人は全国的にも指折り数えられる位の数しか居ないらしい。
同会は元来、中高の理科の教職員を中心とした会であったらしく、初代の堀勝会長が和歌山大教育学部の前身である和歌山師範学校の出身であったのを唯一の例外とし、それ以降は大阪教育大の出身者が歴代の会長を務めている。
アカデミズムの世界では京都大学の植物学研究室と関係が深く、田代善太郎先生の没後は、北村四郎先生(1906~2002)や村田源先生(1927~)が指導して下さったそうであるが、私の入会前の話で詳しくは存じ上げぬ。
アマチュア中心とはいえ、専門家も多く在籍し、今や我が国生薬学界の第一人者と言って良い御影雅幸先生など中学生の頃に入会されたそうで、古い会報でまだ無名に近かった頃の先生の論考を目にする事が出来る。
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