ニセ高島にご用心①
- 2013/10/21
- 00:03
高島嘉右衛門が易占においてあまりの名声を博した為、その存命中から“高島”姓を名乗る、所謂“ニセ高島”易者が続出した。
今では易者人口そのものが激減したから、当時と比べれば或いは数十分の一程度の数かもしれないが、それでもまだ数百人程度はニセ高島が居るのではあるまいか。
実際にネットで検索してみても、高島なんたらという団体が少なくないことが判るだろう。
これらの団体や人物は、全てといって良いくらい、高島嘉右衛門とは何の関係もない“ニセ高島”である。
最近でも、高島を名乗る団体が易とは何の関わりもない霊感商法マガイの詐欺事件で検挙されたのは記憶に新しい。
嘉右衛門は高島の姓を弟子が名乗ることを許さなかったし、“呑象”の号は直弟子の小玉卯太郎氏(1879~1958)が使用するのを黙認していたに過ぎない。
もう一人「二世呑象」と称したのは、嘉右衛門の甥に当たる高島徳右衛門氏(嘉右衛門の弟の初代徳右衛門の子で、木挽町の大地主)だが、昭和初期に社団法人高島易学会が発足した際、会長として擁立されたものの、呑象の号は嘉右衛門から引き継いだものではないので、横浜の高島本家から正式に承認を取り付けようと交渉するも、結局高島家はこれを認めず、いとこ同士という間柄である為、表立って意義の申し立てはせず「黙認」という形になっている。
戦後、徳右衛門の子息という神戸の高島弘光氏が三代目呑象を名乗ることを高島本家に通達してきたが、本家とはほとんど付き合いもなかったらしい。
写真は、ニセ高島の内もっとも名を挙げた高嶋象山(1886~1959)で、“高島”でなく“高嶋”であるところが何ともいじらしい(本名は牧)。
易の知識はお粗末だったが、経営のセンスは中々のものだったようで、「だまって座ればピタリとあたる」のキャッチフレーズは象山が使って有名にしたもの。
総本部の待合室で神経症の青年に刺殺されるという悲惨な最期を遂げた。
芸名は高島嘉右衛門と佐久間象山を足して2で割ったものだろうが、有名になったという点では高嶋に改姓したご利益はあったようだし、凄惨な死を遂げたあたりは象山を名乗ったご利益であるかも知れず、やはりそこらのチンピラニセ高島とは格の違いを感じさせる。
自分の運命を占えなかったという方面からの批判もあったが、かなりの名人でも自分のことになると途端に的中させられなくなるのが通例であるから、これは致し方ない面もあるが、やはり開運指導者としては失格だろう。
今では易者人口そのものが激減したから、当時と比べれば或いは数十分の一程度の数かもしれないが、それでもまだ数百人程度はニセ高島が居るのではあるまいか。
実際にネットで検索してみても、高島なんたらという団体が少なくないことが判るだろう。
これらの団体や人物は、全てといって良いくらい、高島嘉右衛門とは何の関係もない“ニセ高島”である。
最近でも、高島を名乗る団体が易とは何の関わりもない霊感商法マガイの詐欺事件で検挙されたのは記憶に新しい。
嘉右衛門は高島の姓を弟子が名乗ることを許さなかったし、“呑象”の号は直弟子の小玉卯太郎氏(1879~1958)が使用するのを黙認していたに過ぎない。
もう一人「二世呑象」と称したのは、嘉右衛門の甥に当たる高島徳右衛門氏(嘉右衛門の弟の初代徳右衛門の子で、木挽町の大地主)だが、昭和初期に社団法人高島易学会が発足した際、会長として擁立されたものの、呑象の号は嘉右衛門から引き継いだものではないので、横浜の高島本家から正式に承認を取り付けようと交渉するも、結局高島家はこれを認めず、いとこ同士という間柄である為、表立って意義の申し立てはせず「黙認」という形になっている。
戦後、徳右衛門の子息という神戸の高島弘光氏が三代目呑象を名乗ることを高島本家に通達してきたが、本家とはほとんど付き合いもなかったらしい。
ニセ高島界の大御所・高嶋象山
この人相の悪さに注目!
写真は、ニセ高島の内もっとも名を挙げた高嶋象山(1886~1959)で、“高島”でなく“高嶋”であるところが何ともいじらしい(本名は牧)。
易の知識はお粗末だったが、経営のセンスは中々のものだったようで、「だまって座ればピタリとあたる」のキャッチフレーズは象山が使って有名にしたもの。
総本部の待合室で神経症の青年に刺殺されるという悲惨な最期を遂げた。
芸名は高島嘉右衛門と佐久間象山を足して2で割ったものだろうが、有名になったという点では高嶋に改姓したご利益はあったようだし、凄惨な死を遂げたあたりは象山を名乗ったご利益であるかも知れず、やはりそこらのチンピラニセ高島とは格の違いを感じさせる。
自分の運命を占えなかったという方面からの批判もあったが、かなりの名人でも自分のことになると途端に的中させられなくなるのが通例であるから、これは致し方ない面もあるが、やはり開運指導者としては失格だろう。
紀藤先生との対談で恩師高島嘉右衛門について語る小玉呑象先生(昭和30年)
小玉先生にも“児玉呑象”なるニセモノが居たらしい
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