鄧鉄涛先生
- 2019/05/01
- 21:19
ついに30年に及ぶ平成という時代に幕が下ろされ、令和という新時代がスタートした。
世間の馬鹿馬鹿しいお祭り騒ぎは想定内とはいえ、いつもながらうんざりさせられるし、ご即位をお祝いしたところで、令和が暗い時代になることは態々筮を執るまでもなく明らかであって、めでたいという気持ちなど庵主にはさらさら無いのだが、祝賀ムードにこれ以上水を差すような言辞を弄するのは控えることとしよう。
さて、我が粟島行春師は令和を見ることなく逝去されたが、平成まで存命であった、つまり同時代を生きたと言える湯液家の中で、もっとも畏敬の念をもって仰望しておられたのは、本年1月10日に102歳という天寿を全うして長逝された鄧鉄涛先生(1916~2019)であったように思う。
鄧先生は、粟島師が最も深い関わりを持っておられた広州の温病学派の重鎮で、日本では劉渡舟(1917~2001)などと比較してそれほど知名度がないが、師はこの鄧先生こそ東洋医学の神髄を体得した真の湯液家であるとして、最大限の賛辞を贈るのを惜しまれなかった。
その名は、1950年代から中国の伝染病史の端々に登場し、目覚ましい業績を挙げて来られたのは夙に知られるところであるが、最近では、2002年11月から翌年7月にかけて、中国南部を中心に新型肺炎SARSが流行した際、高齢にも関わらず臨床の最前線にて陣頭指揮に立たれ、手がけた中に置いて一人の死者も出さなかったことは、あまりにも有名。
また、粟島師が特に敬服しておられたのは、伝染病に対する鄧先生の態度で、感染はこちらの生命の側の弱さに起因するものに過ぎず、それがなければ恐るるに足らずと、マスク類を臨床において用いられなかったのは、まさに病の罹患において外邪を否定して生命の問題なりとする未病医学そのものであるとしておられた。
蒼流庵には鄧先生の中国語の著作大部分が架蔵されているが、国内では、1990年に『中医症状診断の実際』の邦題で編著一冊が訳出されたのみで、あとは『中医臨床』にインタビュー記事の類が何度か掲載された程度に過ぎず、ほとんど紹介がなされていないのが現状のようである。
残念なことだ。
世間の馬鹿馬鹿しいお祭り騒ぎは想定内とはいえ、いつもながらうんざりさせられるし、ご即位をお祝いしたところで、令和が暗い時代になることは態々筮を執るまでもなく明らかであって、めでたいという気持ちなど庵主にはさらさら無いのだが、祝賀ムードにこれ以上水を差すような言辞を弄するのは控えることとしよう。
さて、我が粟島行春師は令和を見ることなく逝去されたが、平成まで存命であった、つまり同時代を生きたと言える湯液家の中で、もっとも畏敬の念をもって仰望しておられたのは、本年1月10日に102歳という天寿を全うして長逝された鄧鉄涛先生(1916~2019)であったように思う。
鄧鉄涛先生(写真はweb上より拝借)
鄧先生は、粟島師が最も深い関わりを持っておられた広州の温病学派の重鎮で、日本では劉渡舟(1917~2001)などと比較してそれほど知名度がないが、師はこの鄧先生こそ東洋医学の神髄を体得した真の湯液家であるとして、最大限の賛辞を贈るのを惜しまれなかった。
その名は、1950年代から中国の伝染病史の端々に登場し、目覚ましい業績を挙げて来られたのは夙に知られるところであるが、最近では、2002年11月から翌年7月にかけて、中国南部を中心に新型肺炎SARSが流行した際、高齢にも関わらず臨床の最前線にて陣頭指揮に立たれ、手がけた中に置いて一人の死者も出さなかったことは、あまりにも有名。
また、粟島師が特に敬服しておられたのは、伝染病に対する鄧先生の態度で、感染はこちらの生命の側の弱さに起因するものに過ぎず、それがなければ恐るるに足らずと、マスク類を臨床において用いられなかったのは、まさに病の罹患において外邪を否定して生命の問題なりとする未病医学そのものであるとしておられた。
蒼流庵には鄧先生の中国語の著作大部分が架蔵されているが、国内では、1990年に『中医症状診断の実際』の邦題で編著一冊が訳出されたのみで、あとは『中医臨床』にインタビュー記事の類が何度か掲載された程度に過ぎず、ほとんど紹介がなされていないのが現状のようである。
残念なことだ。
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