小林金吾翁と農用気象学
- 2019/05/13
- 18:28
小林金吾先生(『胸像建立記念 小林金吾先生』より)
粟島行春先生は、25歳で土壌研究を発願して以降、全国を放浪し各地の土壌を調査する傍ら、多くの篤学者・篤農家を訪ねて教えを乞うという生活を続けられ、その遍歴は五年に及んだが、山形に滞在した時、小林金吾(1899~1966)という篤農家の自宅に一か月間泊まり込んで、農用気象学という変わった農法について指導を受けたという。
この小林翁は、昭和14年に山形県議会議員に当選し、戦後公職追放を受けるもカムバックして昭和34年にはトップ当選を果たしたという猛者であるが、その説くところの農用気象学が、『素問』の五運六気説に基づくものであると知ったのは、随分後のことであったと粟島先生は述懐されていた。
2010年頃であったと記憶するが、庵主は小林金吾翁の嗣子・善彦氏(1929~)に電話で少しお話を伺ったことがある。
親子二代に渡って毎年「農家行事と日誌」と題した冊子の印刷配布を最近まで続けておられたとのことで、其の的中率はだいたい7割程度ということであった。
なお、中国大陸で発祥した五運六気説はそのままどの地域にも適用可能という訳では勿論なく、カマキリが卵を産みつける所以上の高さには絶対に積雪しない、といった昔からの経験的な知恵を加味しつつ、予測を行っていくそうである。
昭和42年、翁の遺徳を讃え、山形市南館の神明神社に胸像が建てられた。
小林金吾胸像(神明神社内/山形市南館2-4-2)
土を愛し土に殉じた小林金吾翁の生涯は、土に生きる農民に希望の光を与える明星であり、農民の慈父であった。
大正昭和初期の深刻な農村窮乏時代に、自から一介の百姓として苦難の道に身を捧げ、その間衆望を担って県政に参与し、また百姓大学を創設して農民の指導に当り、豊かな経験と温かい愛情をもって新農村建設の礎石となられた。
茲に翁の遺徳を慕いその恩沢に感謝する有志一同の素志を結集し、桜井祐一氏の彫刀のもとに翁の温容を後世に傳えるものである。
昭和四十二年七月
小林金吾翁胸像建立委員会
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