松井羅州
- 2014/02/20
- 18:48
『筮儀約式通解』松井羅州著
真勢中州の高弟・松井羅州(1751~1822)は、宝暦元年に大阪は新町で生まれ、本姓は源、名は暉・暉星・輝星・暉辰・輝暉、字は賚黄、通称は甚五郎・七郎、号に羅州(羅洲)・読耕園・臨照堂・金瓶先生などがある。
平澤随貞と松宮観山のような間柄で、弟子である羅州の方が、中州より年長(3歳違い)であり、市井の売卜者であった中州よりも羅州の方が、上の階級に属していたようだ。
真勢易についての初期の刊本は、全て羅州の手になるものだが、易学以外の著書も多く、文章の書き方を示した『文章規範』や元号について考察した『紀元通考』、随筆集『佗山の石』などに、その多聞博識が示されている。
真勢中州の易占の評判を聞いて門を叩き、中州から易を教わる傍ら、文章の書き方を逆に中州に指導していたらしく、交換教授のような間柄だったようだ。
のちに中州とは袂を分かち、文化年間(1804~1818)には京都に移住、土御門家(※陰陽師・安倍晴明の14代目の子孫・安倍有世の時、安倍氏は土御門を名乗るようになる)に招かれ、家塾「斉政館」において易を講説していたらしい。
羅州には稀星という息子がおり、一応跡を継いだものの、易は上手ではなかったようで、ほとんど名前が残っていない。
文政5年の2月に、72歳で世を去った。
私が占星術家の青木良仁先生と交流するきっかけとなったのが、松井羅州の墓探しであったことは、以前にも書いたと思うけれど、残念ながら今もって羅州の墓は発見出来ていない。
振り返れば、『平安人物志』を頼りに、羅州の足跡を訪ね歩いた日々が懐かしい。
2013年の暮れに、自分の中では、羅州の墓が行方知れずになっている大凡の理由に確信を持つことが出来たが、これはまだ書かないで置こうと思う。
青木先生が、二人の共同調査の結果を纏めて、日本易学協会の機関誌『鼎』にて近いうちに発表される。
玉稿を既に私は拝見しているけれど、実に丹念に調べてあって驚いた、というと不遜かもしれないが、異常な集中力に定評のある青木先生ならこれくらいは当然という気もする。
今から発表を心待ちにしている次第だ。
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