小田亨叔と敬業館
- 2019/08/01
- 18:00
独嘯庵門の三傑と言えば、亀井南冥・小石元俊・小田亨叔であるが、このうち小田亨叔だけは独嘯庵の実弟、つまり血縁者である。
安永三年(1774)、28歳の時、藩公の命により藩医・小田雲同の養子となった。
寛政四年(1792)5月、長府藩第十代藩主毛利匡芳(1758~1792)により藩校「敬業館」が創設されると、亨叔は都講兼医員に任ぜられ、翌年には教授となった。
明治維新後、敬業館は県立豊浦中学校、そして現在の県立豊浦高等学校へと変わり(場所は移転)、その卒業生からは、多くの著名人を輩出している。
安永三年(1774)、28歳の時、藩公の命により藩医・小田雲同の養子となった。
功山寺の小田家墓所
それぞれ、右が小田亨叔、中央が養子の南陔、左が南陔の後を承けた嶽陽の墓碑。
寛政四年(1792)5月、長府藩第十代藩主毛利匡芳(1758~1792)により藩校「敬業館」が創設されると、亨叔は都講兼医員に任ぜられ、翌年には教授となった。
明治維新後、敬業館は県立豊浦中学校、そして現在の県立豊浦高等学校へと変わり(場所は移転)、その卒業生からは、多くの著名人を輩出している。
敬業館及集童場跡碑(下関市長府侍町2-3-26)
現在、旧敬業館の跡地は駐車場になっている。
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