真勢易は松井羅州が創った虚像か
- 2014/02/20
- 21:41
真勢中州という稀代の易占家を語る際に、避けて通れないのが、俗に“空白の十年”などと呼ばれる晩年の謎である。
中州は51歳で『酬醋神明図』を発表してから64歳で没するまでの10年余りの期間、講説含め、その活動がパッタリと休止するのである。
この晩年の空白期間について、中州は米相場に手を出して失敗し、表舞台から去ったのだとも言われているが、飽く迄も巷間の噂に過ぎない。
加藤大岳先生は、そもそも、あれだけの占法家が老年に至るまで同じ活動力を持続させられるものではないとして、中州を弁護しており、それもまた一説であろう。
しかし、ここに薮田嘉一郎先生が面白い異説を示しておられる。
「中州先生墓誌銘について」と題して『易学研究』に発表された小論より、以下引用する。
真勢中州という人が卜筮の名人であったことは疑いないと思う。
これは墓誌にいうように全く中州の天稟によるものであった。
中州卜筮の特色は生卦占法ということになっているが、この占法は中州の創案であるが、それは理論的にまた論理的に構成したものではなく、永年卜筮を経験している中に自然に会得したものと思う。
「範囲図」に示されたようなスコラティックなものではなく、賓主、交代、来往、運移、変為、易位、顛倒、裏面位のものを利用していたにすぎないのでないか。
このような煩瑣な衒学的システムは、松井羅州がでっちあげたものにほかならないと私は考える。
学問が特に優れていたというほどではないが、組織的才能と功名心を持っていた田舎儒者の松井羅州は、中州の卜筮が神験あり、世の賞揚をうけているのに目をつけ、中州が卜筮には天才でありながら、無学不文であることを奇貨とし、これに近づいて、卜筮にシステムを与え、中州卜筮の学的価値を世の知識人に認識せしめ、併せて自己の名声の到達を謀ったものでなかろうか。
そうであればその謀計は相当成功したと云える。
人或いはそれならばなぜ中州を押し出さず、自分が前面に出なかったのかと疑うかもしれないが、今まで卜筮に実績のない羅州が急に卜筮を云々しても世の信用をかちえることができないからである。
それよりもすでに卜筮名人として聞えている中州の高弟として、その易学の祖述者として現われた方が得策である。
その中に中州の易学は実に羅州の組織したところのものであることが知れてくる。
羅州の伝書を読めば中州を立てながら自分の筆録がいかに精細であるかが分るようになっている。
墓誌にも、文章易術を交易授受し、琢磨討論する者亦すでに一千有余日、とあるのは、文章のことだけでないとすれば、この間に羅州が真勢易を組織したことを言ったもので、その功業を誇示しているのである。
羅州が中州に随うこと一千余日、寛政十年戊午(1798)から享和二年壬戌(1802)まで足かけ五年の間に組織を卒え、もう宜かろうと中州の許を辞し、独立した。
一方、中州が羅州を失ったことは魚が水を失ったようなもので、卜筮の実力は以前の如くであっても、組織者、筆録者がないので学問的活動は廃絶し、その新たな発展が絶滅した。
墓誌に「是に於て先生の文章大いに進み観るべし」とあるが、これは怪しい。
中州は一生ロクな文章が書けなかったのではないか。
加藤先生は前掲書(※『真勢易秘訣』のこと)に「晩年に於ける中州の空白時代」を説いておられるが、その空白時代はこのようにして起ったと考えるべきである。
谷川龍山は羅州よりはるかに後年の弟子とされているが、その著わすところの真勢易に関する諸書は、羅州のものをそっくりそのままリライト(書き直し)したものにすぎない。
中州が羅州の遺しておいた伝書を龍山に貸与し、龍山はこれによって書いたのであろう。
中州は龍山に羅州についての愚痴を大いにこぼしたのかもしれない。
龍山が先輩羅州については一言なく、知らざるもののごとくであるのはそのためかと推察される。
龍山は真勢易に関する諸著を刊行したが、それも己が名によってであって、中州著とはしていない。
これは中州の無学不文は世に普く知られていて、今更中州の名によって刊行しても物わらいの種としかならなかったからであろう。
世人は中州の易術には感嘆の声を惜しまなかったが、文章については「あれにそんなことができるか」という評判だったに相違ない。
龍山の文章は平明且つ温和、甚だ喜ぶべきものであったが、組織能力、即ち学問的才能はからきしだめであって、羅州の著を書き直しただけで、中州の易術を更に発展せしめることはかなわなかった。
羅州の文章は佶屈聱牙、神がかり的でイヤな癖があり、泥くさい程であるが、組織の天才であったとは云えよう。
所謂真勢易とは中州の創案を羅州が系統的に組織してできたもので、中州一人のものであったとは言い難い。
両人合作である。
しかしわれらが尊むべく、学ぶべきは中州のエムピリシズム(経験主義)であって、羅州のシステムではない。
羅州のシステムの如きは今日からみれば幼稚浅膚のもので、錯誤さえある。
そうではあるが、今日われらが真勢のエムピリシズムを知ろうとすれば羅州の諸著によるほかはない。
羅州の筆録がなければ中州の卜筮は彼の屍と共に灰になってしまっていたであろう。
ここに於てわれわれが中州の卜筮を賞揚するとき、筆録の羅州の勲業も大いに認めなければならないこととなる。
ただそのアクの強い文章に悪酔してはならないだけである。
附記
『酬醋神明図』は中州と羅州が離別した後に板行されたものだが、羅州の作を中州の名によって刊行したものにすぎなかろう。
これは僅かに一枚の図で、これ位のものであれば中州の著として通ったのであろう。
その他の一枚刷り、『範囲図』の如きも同様である。
中州の著というものにこの一枚刷りしかないことは、本文に言うが如き事情があったことを証明するものと思う。
薮田説には、考証としてやや弱いところもあるが、大凡のところ、私はこの薮田説に賛同する。
私の尊敬する近藤龍雄先生は、真勢易の研究者でもあり、「本も白蛾よりは中州の方が読んでいる」としておられるけれど、これは飽く迄も記述者としての松井羅州を通して見た真勢中州像であり、近藤先生が認めている博学広識は中州のものではなく、羅州のそれであろう。
中州は51歳で『酬醋神明図』を発表してから64歳で没するまでの10年余りの期間、講説含め、その活動がパッタリと休止するのである。
この晩年の空白期間について、中州は米相場に手を出して失敗し、表舞台から去ったのだとも言われているが、飽く迄も巷間の噂に過ぎない。
加藤大岳先生は、そもそも、あれだけの占法家が老年に至るまで同じ活動力を持続させられるものではないとして、中州を弁護しており、それもまた一説であろう。
しかし、ここに薮田嘉一郎先生が面白い異説を示しておられる。
「中州先生墓誌銘について」と題して『易学研究』に発表された小論より、以下引用する。
真勢中州という人が卜筮の名人であったことは疑いないと思う。
これは墓誌にいうように全く中州の天稟によるものであった。
中州卜筮の特色は生卦占法ということになっているが、この占法は中州の創案であるが、それは理論的にまた論理的に構成したものではなく、永年卜筮を経験している中に自然に会得したものと思う。
「範囲図」に示されたようなスコラティックなものではなく、賓主、交代、来往、運移、変為、易位、顛倒、裏面位のものを利用していたにすぎないのでないか。
~~~~~~~~~中略~~~~~~~~~
このような煩瑣な衒学的システムは、松井羅州がでっちあげたものにほかならないと私は考える。
学問が特に優れていたというほどではないが、組織的才能と功名心を持っていた田舎儒者の松井羅州は、中州の卜筮が神験あり、世の賞揚をうけているのに目をつけ、中州が卜筮には天才でありながら、無学不文であることを奇貨とし、これに近づいて、卜筮にシステムを与え、中州卜筮の学的価値を世の知識人に認識せしめ、併せて自己の名声の到達を謀ったものでなかろうか。
そうであればその謀計は相当成功したと云える。
人或いはそれならばなぜ中州を押し出さず、自分が前面に出なかったのかと疑うかもしれないが、今まで卜筮に実績のない羅州が急に卜筮を云々しても世の信用をかちえることができないからである。
それよりもすでに卜筮名人として聞えている中州の高弟として、その易学の祖述者として現われた方が得策である。
その中に中州の易学は実に羅州の組織したところのものであることが知れてくる。
羅州の伝書を読めば中州を立てながら自分の筆録がいかに精細であるかが分るようになっている。
墓誌にも、文章易術を交易授受し、琢磨討論する者亦すでに一千有余日、とあるのは、文章のことだけでないとすれば、この間に羅州が真勢易を組織したことを言ったもので、その功業を誇示しているのである。
羅州が中州に随うこと一千余日、寛政十年戊午(1798)から享和二年壬戌(1802)まで足かけ五年の間に組織を卒え、もう宜かろうと中州の許を辞し、独立した。
一方、中州が羅州を失ったことは魚が水を失ったようなもので、卜筮の実力は以前の如くであっても、組織者、筆録者がないので学問的活動は廃絶し、その新たな発展が絶滅した。
墓誌に「是に於て先生の文章大いに進み観るべし」とあるが、これは怪しい。
中州は一生ロクな文章が書けなかったのではないか。
加藤先生は前掲書(※『真勢易秘訣』のこと)に「晩年に於ける中州の空白時代」を説いておられるが、その空白時代はこのようにして起ったと考えるべきである。
谷川龍山は羅州よりはるかに後年の弟子とされているが、その著わすところの真勢易に関する諸書は、羅州のものをそっくりそのままリライト(書き直し)したものにすぎない。
中州が羅州の遺しておいた伝書を龍山に貸与し、龍山はこれによって書いたのであろう。
中州は龍山に羅州についての愚痴を大いにこぼしたのかもしれない。
龍山が先輩羅州については一言なく、知らざるもののごとくであるのはそのためかと推察される。
龍山は真勢易に関する諸著を刊行したが、それも己が名によってであって、中州著とはしていない。
これは中州の無学不文は世に普く知られていて、今更中州の名によって刊行しても物わらいの種としかならなかったからであろう。
世人は中州の易術には感嘆の声を惜しまなかったが、文章については「あれにそんなことができるか」という評判だったに相違ない。
龍山の文章は平明且つ温和、甚だ喜ぶべきものであったが、組織能力、即ち学問的才能はからきしだめであって、羅州の著を書き直しただけで、中州の易術を更に発展せしめることはかなわなかった。
羅州の文章は佶屈聱牙、神がかり的でイヤな癖があり、泥くさい程であるが、組織の天才であったとは云えよう。
所謂真勢易とは中州の創案を羅州が系統的に組織してできたもので、中州一人のものであったとは言い難い。
両人合作である。
しかしわれらが尊むべく、学ぶべきは中州のエムピリシズム(経験主義)であって、羅州のシステムではない。
羅州のシステムの如きは今日からみれば幼稚浅膚のもので、錯誤さえある。
そうではあるが、今日われらが真勢のエムピリシズムを知ろうとすれば羅州の諸著によるほかはない。
羅州の筆録がなければ中州の卜筮は彼の屍と共に灰になってしまっていたであろう。
ここに於てわれわれが中州の卜筮を賞揚するとき、筆録の羅州の勲業も大いに認めなければならないこととなる。
ただそのアクの強い文章に悪酔してはならないだけである。
附記
『酬醋神明図』は中州と羅州が離別した後に板行されたものだが、羅州の作を中州の名によって刊行したものにすぎなかろう。
これは僅かに一枚の図で、これ位のものであれば中州の著として通ったのであろう。
その他の一枚刷り、『範囲図』の如きも同様である。
中州の著というものにこの一枚刷りしかないことは、本文に言うが如き事情があったことを証明するものと思う。
薮田説には、考証としてやや弱いところもあるが、大凡のところ、私はこの薮田説に賛同する。
私の尊敬する近藤龍雄先生は、真勢易の研究者でもあり、「本も白蛾よりは中州の方が読んでいる」としておられるけれど、これは飽く迄も記述者としての松井羅州を通して見た真勢中州像であり、近藤先生が認めている博学広識は中州のものではなく、羅州のそれであろう。
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