永富独嘯庵を求めて②
- 2019/07/29
- 19:09
宇部村(現在の下関市王司)の庄屋・勝原治左衛門の三男として生を受けた独嘯庵(幼名鳳介)は、少年期に診療を受けたことが縁で、遠縁でもあったという後世方医・永富友庵の養嗣子となって医業を継いだが、友庵は現在の下関市南部町国分寺下で開業していたと木山本に記載されている。
王司上町を散策した後、小田済川の墓所未参という日高女史を案内して功山寺に向かい、続いて同寺に隣接する下関市立歴史博物館で学芸員の松田和也先生を紹介して頂いたが、その際、永富医院の旧跡について尋ねた庵主に対し、先生は江戸時代の付近の古地図が収載された資料を示され、恐らくは現在の下関市役所の西側を東西に走る通りにあったのではないかと答えられた。
永富医院があった辺りから、北東400メートル程の場所に、東京第一ホテルが立っているが、この付近は、かつて国内屈指の遊郭街であった旧赤間関稲荷町跡で、当然ながら当時は梅毒が蔓延していた。
独嘯庵は、梅毒治療の研究に精魂を傾け、関連の遺稿が没後『黴瘡口訣』として刊行されているが、当時の永富医院の立地は、梅毒を調べるには打って付けの場所で、独嘯庵流の梅毒治療はこの場所における診療の日々のうちに培われたものではないかというのが日高女史の推測である。
また、儒者・広瀬旭荘(1807~1863)の日記に、大隆寺山の山頂に独嘯庵の墓があると書かれており、この記述を頼りに、九州国際大付属中高の亀田一邦先生が数回調査を試みられるも、残念ながら現存せぬらしく発見には至らなかったそうであるが、この大隆寺山は、永富医院旧跡の裏山に当たり、永富家の墓所に独嘯庵の分墓か供養塔の類がかつてあったものらしい。
なお、大阪における拠点は、亀井南冥に当てた書簡に「浪華の高麗橋南備後街第五街に客たり」とあり、主著『漫遊雑記』が編まれ、終焉の地も恐らくはここであったのではないかと思うが、大阪市立中央図書館に調査を依頼し、古地図と対照してもらった結果、高麗橋南備後街第五街は、現在の「中央区備後町四丁目」付近であることが判った。
本願寺津村別院の北側の通りであるが、薬のまち道修町が目と鼻の先に在って、医業には打って付けの立地である辺り、いかにもといった印象である。
こういった周辺の文化的経済的状況を追体験出来るのは、イエマイルの醍醐味の一つだ。
王司上町を散策した後、小田済川の墓所未参という日高女史を案内して功山寺に向かい、続いて同寺に隣接する下関市立歴史博物館で学芸員の松田和也先生を紹介して頂いたが、その際、永富医院の旧跡について尋ねた庵主に対し、先生は江戸時代の付近の古地図が収載された資料を示され、恐らくは現在の下関市役所の西側を東西に走る通りにあったのではないかと答えられた。
下関市南部町国分寺下
永富医院があった辺りから、北東400メートル程の場所に、東京第一ホテルが立っているが、この付近は、かつて国内屈指の遊郭街であった旧赤間関稲荷町跡で、当然ながら当時は梅毒が蔓延していた。
独嘯庵は、梅毒治療の研究に精魂を傾け、関連の遺稿が没後『黴瘡口訣』として刊行されているが、当時の永富医院の立地は、梅毒を調べるには打って付けの場所で、独嘯庵流の梅毒治療はこの場所における診療の日々のうちに培われたものではないかというのが日高女史の推測である。
また、儒者・広瀬旭荘(1807~1863)の日記に、大隆寺山の山頂に独嘯庵の墓があると書かれており、この記述を頼りに、九州国際大付属中高の亀田一邦先生が数回調査を試みられるも、残念ながら現存せぬらしく発見には至らなかったそうであるが、この大隆寺山は、永富医院旧跡の裏山に当たり、永富家の墓所に独嘯庵の分墓か供養塔の類がかつてあったものらしい。
なお、大阪における拠点は、亀井南冥に当てた書簡に「浪華の高麗橋南備後街第五街に客たり」とあり、主著『漫遊雑記』が編まれ、終焉の地も恐らくはここであったのではないかと思うが、大阪市立中央図書館に調査を依頼し、古地図と対照してもらった結果、高麗橋南備後街第五街は、現在の「中央区備後町四丁目」付近であることが判った。
本願寺津村別院の北側の通りであるが、薬のまち道修町が目と鼻の先に在って、医業には打って付けの立地である辺り、いかにもといった印象である。
こういった周辺の文化的経済的状況を追体験出来るのは、イエマイルの醍醐味の一つだ。
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