永富独嘯庵発掘の功労者・木山芳朋先生のこと
- 2019/08/04
- 13:44
戦前、永富独嘯庵研究の第一人者として知られたのは、医史学の泰斗・富士川游で、戦後は寺師睦宗先生や我が師・粟島行春先生らが、それぞれ私淑して熱心に顕彰活動に取り組まれたが、それら諸家の影に隠れ、今では医史学者の間ですら、その名が殆ど知られていない独嘯庵発掘の功労者が居る。
その功労者・木山芳朋先生(1914~1977)については、今日独嘯庵に特別の関心を持つ一部の人だけが知る存在で、著述としては『独嘯庵』および『永富独嘯庵遺稿集』の二冊の小著が遺されているのみであるが、木山先生の仕事が無ければ、独嘯庵はもっと謎に包まれた医家であったかもしれない。
下関市南部町で独嘯庵イエマイルを試みた後、日高女史と共に最後の目的地である山口市吉敷に、木山先生の嗣子・克彦氏(1944~)を訪ねた。
事前に日高女史が連絡して下さっており、貴重な情報をいくつも提供して頂いただけでなく、近くにある先生の墓所も掃苔することが出来た。
『独嘯庵』の記述に克彦氏から伺った話を織り交ぜ、先生の生涯と、その独嘯庵研究史を簡単にご紹介してみたい。
第一次世界大戦の勃発した大正3年(1914)に生まれた木山先生の実家・新田家は、現在は罹災によって移転しているが、もとは勝原家の隣家であったという。
出身校である豊浦中学は先に紹介した長府藩の藩校・敬業館を源流としており、いわば木山先生は独嘯庵の遠い学統に連なる人物であると言って言えない事はない。
豊浦中在学時より郷土史に興味を抱き、王司村誌の編纂に着手するに至って、取り上げるべき人材の乏しいのを嘆いていた矢先、父君や小学校時代の恩師八木哲雄氏より独嘯庵の存在を教えられ、これが独嘯庵に取り組むきっかけとなった。
地元の古老・南武右衛門氏らに義士坂の勝原家墓所を教えられ、父君と共に発見した時には、すでに勝原家は絶家して、屋敷跡に住んでいた勝原家の縁者・中川家(独嘯庵の兄・吉太夫の娘婿が中川氏)も大正初年に他出した後であった為、墓所は無縁となってしまっていた。
そこで、父君と共に墓守をすることになり、昭和13年に木山家に入婿してからは、新田家が長らく墓守を続けていたのだが、調査において全面的に助けて頂いた日高女史は独嘯庵のことを知るずっと以前から、新田家と知己の間柄であった為、今や独嘯庵研究者でも知らない義士坂の場所を教えてもらったということである。
もともと、木山先生は国学院大を出て神主を志願していたそうであるが、神主も空きポストがないと就職もままならないという現実に直面し、中高の教師を経て、戦後は県庁に勤務、その間も私財を投げ打って独嘯庵の調査研究は続けられた。
その生涯をかけた調査研究の中で、とりわけ重要な年となったのが昭和30年である。
独嘯庵が歿した時、子が幼かった為、門人の亀井南冥がこれを引き取って養育し、後、五島侯に仕えさせたのだが、これが永富亀山(1757~1801)で、以降、独嘯庵の子孫は五島に住み続け、木山先生は昭和30年12月に長崎県福江市に住む独嘯庵の後裔永富数馬氏を訪ね、遺墨をはじめ数々の貴重な資料を閲覧する機会を得た。
上掲写真は、木山先生が福江に渡った時のもので、これらの写真を含む木山家の資料は、2015年に下関市立歴史博物館に寄贈されている。
五島から帰って後、数馬氏と同道の畏友・栗本宗平氏(福江保健所長)より、資料類の写本と写真が届けられ、これにより独嘯庵研究は大きく進展することになる。
なお、五島に渡って調査された亀田一邦先生によると、嫡系永富家は、平成3年に数馬氏(享年97歳)が永眠して無嗣絶家となり、同家所蔵の関連資料の行方も不明ということであるが、木山克彦氏によると、芳朋先生の没後に永富家は火災に遭い、資料類は盡く灰燼に帰したということであった。
ところで、五島藩儒となった永富亀山には、弟が居た。小田亨叔の手になる『独嘯庵先生行状』には「次は又内、浪速西尾某氏の子として養はる」とだけあり、木山本も「生没不詳、大阪与力西尾某に養わる」と記すのみであるが、この又内が浄瑠璃や歌舞伎の作者として大阪で活躍した司馬芝叟ではないかとする説がある。
天明3年~文化元年という活躍の期間も亀山の弟として矛盾はないし、父は清国人、母は長崎丸山の遊女とする説もあるらしいが、浜松歌国(1776~1827)の『南水漫遊拾遺』巻2には「独笑庵忰」とあって、歌国は芝叟と同じ時代を大阪で生きた人であるから、一応注意しておくべき説であると思う。
話を戻して、独嘯庵の研究に生涯を捧げたといっても過言ではない先生は、地元での顕彰活動にも熱心に取り組み、190年忌には有志らと共に永富独嘯庵顕彰会を結成、その事業の一つとして刊行されたのが、先に挙げた二冊の貴重な成果で、王司の善勝寺において慰霊祭も挙行された。
昭和35年には献身的としか言いようのない先生の尽力により、台石を含めれば成人の背丈の二倍ほどもある立派な「永富独嘯庵先生顕彰碑」が建立されている。
『漢方の臨床』第12巻第6号には、二百周忌に大阪の蔵鷺庵で開催された永富独嘯庵追遠祭の様子をまだ睦済と名乗られていた頃の寺師睦宗先生がレポートされているのだが、大塚敬節、森田幸門、安岡正篤といった大先生方に交じり、唯一無名の郷土史家である木山先生も招聘されて「防長史における独嘯庵」の題で記念講演を行っている。
一介の郷土史家である木山先生を、独嘯庵を語る上で外せない人物として招聘されたのは、寺師先生であったそうだが、こういうところにも寺師先生の誠実なお人柄が窺われよう。
晩年の先生は闘病生活を送り、起居にも不自由する日々を送られたそうで、昭和52年12月25日に64歳で永眠、吉敷の三舞墓地に葬られた。
その功労者・木山芳朋先生(1914~1977)については、今日独嘯庵に特別の関心を持つ一部の人だけが知る存在で、著述としては『独嘯庵』および『永富独嘯庵遺稿集』の二冊の小著が遺されているのみであるが、木山先生の仕事が無ければ、独嘯庵はもっと謎に包まれた医家であったかもしれない。
下関市南部町で独嘯庵イエマイルを試みた後、日高女史と共に最後の目的地である山口市吉敷に、木山先生の嗣子・克彦氏(1944~)を訪ねた。
事前に日高女史が連絡して下さっており、貴重な情報をいくつも提供して頂いただけでなく、近くにある先生の墓所も掃苔することが出来た。
『独嘯庵』の記述に克彦氏から伺った話を織り交ぜ、先生の生涯と、その独嘯庵研究史を簡単にご紹介してみたい。
第一次世界大戦の勃発した大正3年(1914)に生まれた木山先生の実家・新田家は、現在は罹災によって移転しているが、もとは勝原家の隣家であったという。
出身校である豊浦中学は先に紹介した長府藩の藩校・敬業館を源流としており、いわば木山先生は独嘯庵の遠い学統に連なる人物であると言って言えない事はない。
豊浦中在学時より郷土史に興味を抱き、王司村誌の編纂に着手するに至って、取り上げるべき人材の乏しいのを嘆いていた矢先、父君や小学校時代の恩師八木哲雄氏より独嘯庵の存在を教えられ、これが独嘯庵に取り組むきっかけとなった。
地元の古老・南武右衛門氏らに義士坂の勝原家墓所を教えられ、父君と共に発見した時には、すでに勝原家は絶家して、屋敷跡に住んでいた勝原家の縁者・中川家(独嘯庵の兄・吉太夫の娘婿が中川氏)も大正初年に他出した後であった為、墓所は無縁となってしまっていた。
そこで、父君と共に墓守をすることになり、昭和13年に木山家に入婿してからは、新田家が長らく墓守を続けていたのだが、調査において全面的に助けて頂いた日高女史は独嘯庵のことを知るずっと以前から、新田家と知己の間柄であった為、今や独嘯庵研究者でも知らない義士坂の場所を教えてもらったということである。
もともと、木山先生は国学院大を出て神主を志願していたそうであるが、神主も空きポストがないと就職もままならないという現実に直面し、中高の教師を経て、戦後は県庁に勤務、その間も私財を投げ打って独嘯庵の調査研究は続けられた。
その生涯をかけた調査研究の中で、とりわけ重要な年となったのが昭和30年である。
独嘯庵が歿した時、子が幼かった為、門人の亀井南冥がこれを引き取って養育し、後、五島侯に仕えさせたのだが、これが永富亀山(1757~1801)で、以降、独嘯庵の子孫は五島に住み続け、木山先生は昭和30年12月に長崎県福江市に住む独嘯庵の後裔永富数馬氏を訪ね、遺墨をはじめ数々の貴重な資料を閲覧する機会を得た。
左:永富数馬氏/右:木山先生(福江桟橋にて)
上掲写真は、木山先生が福江に渡った時のもので、これらの写真を含む木山家の資料は、2015年に下関市立歴史博物館に寄贈されている。
五島から帰って後、数馬氏と同道の畏友・栗本宗平氏(福江保健所長)より、資料類の写本と写真が届けられ、これにより独嘯庵研究は大きく進展することになる。
なお、五島に渡って調査された亀田一邦先生によると、嫡系永富家は、平成3年に数馬氏(享年97歳)が永眠して無嗣絶家となり、同家所蔵の関連資料の行方も不明ということであるが、木山克彦氏によると、芳朋先生の没後に永富家は火災に遭い、資料類は盡く灰燼に帰したということであった。
ところで、五島藩儒となった永富亀山には、弟が居た。小田亨叔の手になる『独嘯庵先生行状』には「次は又内、浪速西尾某氏の子として養はる」とだけあり、木山本も「生没不詳、大阪与力西尾某に養わる」と記すのみであるが、この又内が浄瑠璃や歌舞伎の作者として大阪で活躍した司馬芝叟ではないかとする説がある。
天明3年~文化元年という活躍の期間も亀山の弟として矛盾はないし、父は清国人、母は長崎丸山の遊女とする説もあるらしいが、浜松歌国(1776~1827)の『南水漫遊拾遺』巻2には「独笑庵忰」とあって、歌国は芝叟と同じ時代を大阪で生きた人であるから、一応注意しておくべき説であると思う。
話を戻して、独嘯庵の研究に生涯を捧げたといっても過言ではない先生は、地元での顕彰活動にも熱心に取り組み、190年忌には有志らと共に永富独嘯庵顕彰会を結成、その事業の一つとして刊行されたのが、先に挙げた二冊の貴重な成果で、王司の善勝寺において慰霊祭も挙行された。
晩年の木山先生と御令孫
昭和35年には献身的としか言いようのない先生の尽力により、台石を含めれば成人の背丈の二倍ほどもある立派な「永富独嘯庵先生顕彰碑」が建立されている。
『漢方の臨床』第12巻第6号には、二百周忌に大阪の蔵鷺庵で開催された永富独嘯庵追遠祭の様子をまだ睦済と名乗られていた頃の寺師睦宗先生がレポートされているのだが、大塚敬節、森田幸門、安岡正篤といった大先生方に交じり、唯一無名の郷土史家である木山先生も招聘されて「防長史における独嘯庵」の題で記念講演を行っている。
一介の郷土史家である木山先生を、独嘯庵を語る上で外せない人物として招聘されたのは、寺師先生であったそうだが、こういうところにも寺師先生の誠実なお人柄が窺われよう。
晩年の先生は闘病生活を送り、起居にも不自由する日々を送られたそうで、昭和52年12月25日に64歳で永眠、吉敷の三舞墓地に葬られた。
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