寺西易堂の墓
- 2019/08/13
- 12:21
寺西易堂墓(梅旧禅院/大阪市天王寺区夕陽丘町1-18)
昨夏は、各務文献先生の法要準備や顕彰碑建立などで、何度も夕陽丘の浄春寺へ足を運んだが、或る時、実行委員長の今井秀先生のお誘いで、浄春寺の北隣にある梅旧禅院(少し前ヤクザ絡みの騒ぎがあったアソコ)の墓所を覗いてみる事になった。
今井先生は斎藤方策(1771~1849)の掃苔で何度か訪れているということであったが、庵主は蘭方医には丸で関心が無いので、これまで足を踏み入れたことは一度もなかったのである。
方策の掃苔後、帰り際に目についたのが写真の墓碑で、「龍徳院雲岳易堂居士」とは又なんとイカした居士号であることかと思い、この被葬者について調べてみたところ、漢学者で書画に巧みであった寺西易堂(1826~1916)のものであることが判った。
名は鼎、字は子善、号を易堂といったそうで、徹底して易絡みであるのが嬉しい。
没年が大正五年と比較的新しい物故者である為、木村敬二郎の『大阪訪碑録』には収載されておらず、墓所の所在を知っている人はごく少ないと思われる。
墓碑の下部に立てかけられていた石板の文様は、最初算木文かと思ったが、よく見ると五本しかなくて、いったい何なのか判らない。
碑文は、養子となって寺西家を嗣いだ寺西乾山(1860~1945)の手に成るが、この乾山、調べてみると、臨済宗妙心寺派の子弟教育に生涯を捧げた人らしく、花園大学の前身に当る私立花園専修学院は、乾山が独力で創設したものであるという。
こういった偶然の掃苔もまた実に楽しいものだ。
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